英語の民間試験導入が延期


大人はみんな教育問題を語るのが好きですね。


目次

はじめに

先日、新センター試験ともいえる、2020年度(試験日は2021年)から始まる大学入試共通試験の目玉の一つだった英語の民間試験利用が延期されました。

まあ、制度が複雑で教育現場は大混乱だったらしいのですが、それを機に大きな議論が始まっています。

特に、残ったもう一つの目玉である、記述式の導入を巡って批判が渦巻いています。

記述式もこの際廃止すべきだと。

まあ、要するに、既存のセンター試験でいいじゃないかと。

それにしても、大人は教育問題を議論するのが好きですね。

自分がテストされなくなったのをいいことに言いたい放題。

私としては、改革の方向性よりも、なぜいつもいつも教育問題は紛糾するのかという方にこそ興味があるのですが、それらも含めて思ったことを雑多に書いてみます。

ゆとり教育と同じ

今回の騒動、思い出すのは、このブログでよく言及しますが、ゆとり教育問題。

あの時も、国民から総スカンを食らって文科省は袋叩きにあっていました。

しかし、国会で質疑に呼ばれて政治家から猛攻撃を受ける中で、トップ官僚がキレたことがありました。

詰め込み教育を散々批判してきたのはマスコミと国民じゃないか、と。

確かに当時は、専門家をはじめ色んな人達が、校内暴力、家庭内暴力、いじめ問題などの原因は、過酷な受験競争や詰込み教育のせいで「心の教育が不十分なことにある」と主張していました。

だから教育改革の目玉としてゆとり教育が登場しました。

しかし、いざ導入しようとしたら、猛批判が始まった。

今回のセンター試験の改定もある意味同じ。

最近になって急に、センター試験は良問ぞろいとか、センター試験のままでいいなんて意見が噴出していますが、もともと批判の多い試験です。

マークシートで人生が決まるのはどうかと思う的な雰囲気だけの批判から、マークシートだと適当に選んでも正答する場合が多く実力が分からないといった意見など、批判はずっとありました。

特に、「最近の子供の文章力/論理力が低い」なんて言説と「マークシート形式のセンター試験だけで入学できる大学がたくさんある」問題はセットで猛批判されていました。

また、英語のセンター試験も、あんなペーパーテストで英語力が測れるのかという批判は常にあって、多額の税金を投入してリスニング試験を導入したのですが、毎年トラブルが起きています。

しかし、それに対しても、リスニングだけじゃ不十分でスピーキングも必要とか、多くの改善要求がそれなりの声の大きさで主張がなされてきたからこそ、何とかして対応しようとしたけど、さすがに「書く」「読む」「聞く」「話す」の4技能を総合的に判断する試験を用意するのは多額の税金投入が必要になるから、すでにある民間試験を利用しようとなった。

しかし、いざ具体的な改革案が出ると、センター試験のままでいいじゃないかと猛批判が始まった。

まさにゆとり教育の時と同じ。

政治家がバカとか、官僚がバカとか、まあ、そう思うことは多々ありますが、彼らは基本的に国民の声を聴いて動いています。

制度改革をするのは、既存試験への不平不満が一定以上あったから。

それを主張していた人たちは今頃どこに隠れているんですかね。

改革には賛成だが今回の改革案には反対であると堂々としてるのかな。

教育問題は常に炎上

教育問題の炎上はゆとり教育の以前から存在します。

明治維新以来、教育制度を巡ってはいつも議論が紛糾しているようです。

ここら辺は、下記の2つが非常に面白いです。

明治時代から国民の教育制度への不満というのは渦巻いていて、いつも既存制度への批判は声高に主張され、あーした方がいい、こーした方が良いと、日本が近代してから以降、制度批判が絶えたことはありません。

しかし、いざ改革しようとすると必ず、これは改悪だなんていう主張が逆の勢力から提出されます。

そして、それを支えているのは、テストが無くなったことをいいことに、あーでもないこーでもないと無責任な議論を繰り広げる大人たち。

要するに、国民主導の居酒屋談義的な適当な話が教育関係には溢れていて、政治や行政がその相手をしなくてはいけないことから、常に教育改革を巡って混乱が生じているわけです。

Yahooニュースの掲示板を見るだけでも、皆さん今回の問題を批判していますが、その根底にある教育制度に関する哲学・思想はてんでバラバラで、こりゃまとまるはずもないなと感じます。

民主主義国家ですから、結局原因はいつも「国民」にあります。

英語教育の成果

適当な議論の中でも、一番適当なのが英語教育に関する議論。

今回の騒動でも英語教育に関しては、百家争鳴といった感じで、色んな人が色んなことを言っています。

ただ、大事な事実が意外に取り上げられない気がします。

外資系企業や日系企業でも英語を使う部門の人ならみんな知ってる話。

今の若者、みんな英語ものすごい上手いけどね。

これ反論する人いないんじゃないの。

相当できるよみんな。

一昔前とはレベルが違う。

いわゆる高学歴でも、うーとかあーとか言ってた自分の時代には考えられない状況が生まれている。

「日本人は英語が話せない」前提で、今の若者も昔と同じだと思ったら大間違い。

そう考えると、英語教育は進歩していると思いますけどね。

でもある意味当たり前で、昔のように、英語字幕の映画やドラマのDVDを何とかして入手して、ひたすらそれを見るなんてことやらなくても、YoutubeやNetflixなど、面白いコンテンツは山ほどあるし、クリック一つで英語字幕で見れる(そういえばトップガンをひたすら見まくって英語を習得したなんて知り合いもいたなあ。。。)。

特に、日本のアニメなども英語字幕で見られたり、自分の好きなコンテンツを通じて英語の勉強ができます。


日本語版(英語字幕)と各種英語吹き替え版の比較動画(自動字幕可能)

つまり、英語を勉強しようとする人にとっては、いくらでも生きた教材がある。

オンラインゲームやってる子たちも今は当たり前のように海外の動画とか見ていますし、英語に触れる機会も多い。

また、フィリピン人とのオンライン英会話なんて1時間1000円くらいで受けられ、昔みたいにグループレッスンに何十万と言った高額のローンを組む必要なんてないです。

そりゃできるようになりますよね。

もちろん、やる気がある人の話です。

これからの教育問題

最近の若者の英語力が上がっていると言いましたが、もちろんそれはやる気のある人の話。

自分から勉強しようとする人にとっては、学校の教材以外にいくらでもツールがあるというだけ。

できる層の子たちは昔よりレベルアップしている。

その一方で、学校で言われた事だけをやるという受け身の人も多く、そういう人は昔のまま。

一番重要なことは、教育に関しては、本人の意識次第でどんどん差がつくという、ある意味恐ろしい時代が来てしまっているという点。

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今回のセンター試験改革の話もそこを見落とせません。

教育における経済的な格差や地方格差などが声高に叫ばれていますが、今の時代、上述の生きた英語教材以外にも、Youtubeやネットでいくらでも有名講師の授業は聞けるし良質な情報に出会えますから、環境由来の格差が生み出す学力差なんて微々たるもの。

そりゃ英検を多めに受けて慣れておいた方が有利かもしれませんが、そんなことから生じる差なんて、本人のやる気から生じる差に比べれば微々たるもので、まったく本質的な議論ではありません。

今回の英語の民間試験の利用の延期を受けて、怒っている人たちもいて、すでに英検の対策講座を受講していた、本番に備えて英検を昨年から毎回受けるようにしていた、それなのに一体どうしてくれるんだ、と。

勉強を通じて足りないものを補ったんだから無駄ではないでしょう。

勉強=試験対策なんでしょうかね。

就職するためには大学を出てないと不利だから大学に行き、大学に行くためには英語の試験でいい点を取らないといけないから英語の勉強をするのだろうか。

自分以外もみんなそうだと思ってるんでしょうか。

だとしたら、今後苦労すると思う。

特にこれからの時代は。

そう考えると、私が学生だった頃なんて、情報は限られていましたから、ある意味エスカレーターに乗ればいいだけだったので楽な世界でした。

しかし、今の若者は、ネットを通じでいくらでも質の高い教材にアクセスできるし、なにより、世界中の、特に途上国と呼ばれている国の子たちも同じように、スマホ1つで質の高い教育を受けられるわけで、直面する競争の過酷さと言ったら、相当なもんでしょう(世界中から学生が集まるアメリカで移民排斥運動がおこるのもうなずけます)。

誰でもやる気さえあればいくらでもレベルアップできるけど、その反面、グローバルな規模でのすさまじい競争が起きている。

しかし、一方では、民間利用が無くなってスピーキングの練習をしなくていいとなればしない、自己研鑽のための民間検定も義務じゃなければ挑戦しないという学生がたくさんいる。

要するに、民間利用をしてでも、ゴールのところで4技能を問う形にしないと、4技能を学習しないという学生がたくさんいる。

そういった、やれと言われたことしかやらない多数派の子たちをどう誘導するかが最重要論点。

つまり、できる子たちなんて適当にほっといてもよくて、「工場としての学校」を全面的に認めた上で、どう制度設計するかの話にならざるを得ない。

一方の極論は、勉強なんてしなくなければしなくていいし、学校も行きたくなければいかなくていい、ベーシックインカムあげるから、それで楽しく暮らしてください、という恐ろしい方針。

その方針を採らないとしたら、やろうと思えば学校なんていかなくてもいくらでも勉強できる時代に、やらせないとやらない子たちにどのような教育をするのか。

それがこれからの教育問題の本質。

記述式の是非

記述式の導入に関しても延期を求める声が強いようです。

それでも、私は、記述式の導入には賛成だな。

既存のセンター試験の質の高さには疑いがないから、今のままでいいという見解は理解できるし、悩ましいけど。

なぜ記述式の導入に賛成かと言うと、昔の記事に書きましたが、新制度の記述式の問題を見て、これはこれで良い問題だと思ったから。

2017年5月16日の日記

記述式の問題点として、自己採点の難しさが挙げられます。

予行テストでも、自己採点と実際の結果が異なる学生が頻出したらしい。

これは、記述式だから採点にブレが生じたと言われていますが・・・。

個人的な予想だけど、そうじゃないと思う。

私も、会計士試験後に予備校で採点やったことがあるのですが、会計士試験のレベルですら、記述式にすると、質問に答えない人がとにかく多い。

びっくりするのですが、質問に答えない人というのはものすごいたくさんいる。

例えば最近はチュートリアル徳井さんの脱税事件が話題ですが、それに関して問題を出すとする。

問題:徳井さんはなぜ非難されているか書きなさい。

そうすると、

「法人税の申告及び納付は義務だから」

といった感じの答案を書いてくる人はとにかく多い。

それでも、理由を聞いた問題に対して「・・・だから」という形式で答えただけましな方。

「法人税の申告及び納付は義務である」

なんて書いてくるパターンも多い。

もちろん正解は

「法人税の申告納付義務を怠ったから」

となる。

ここで一番の問題は、上の2つのような変な解答をしてきた人というのは、自己採点するときに自分は正解したと思ってるという点。

正解と自分の書いた答えの差に気がつかない。

ここら辺ができない人を社会に送り出しても、会社などですれ違い答弁的なトラブルが増えるだけで、学校教育は一体何やってるんだという批判がいつもある。

だからこそ、難解なアカデミックな文章にこだわらずに、契約書や親子の会話と言った日常的な文章を素材にしてでも、基礎的な論理力というか、筋道だった議論をする能力を問うために記述式を導入しようとした。

つまり、「記述式だから」自己採点がぶれたのではなく、それっぽいことを書いてるけど、基礎的な論理力が無いから筋違いのことを書いているのに気づいていなくて、その結果として自己採点と実際の得点に乖離があったんじゃないかな(完全に予想だけど)。

そこを教育の過程で見つけて矯正するためにはマークシートではダメで、だからこそ記述式を導入し、また日ごろからトレーニングする方向にしようとした。

これこそが記述式導入の経緯。

自己採点と実際の得点がずれる生徒がたくさんいたという事実は、ある意味、記述式導入の問題点ではなく、記述式導入の推進理由なんだと思う。

そして、これ本当に大問題だと思う。

だから、民間委託と天下りの関係の闇は深そうですが、やってみる価値はあったと思いますけどね。

上述したように、マークシート式のセンター試験だけで合格できる大学はたくさんあって、その対策しかしない生徒は、記述式のトレーニングもしないから、自分の間違いに気づかないまま大学に行く。

そして社会に出てから、おかしな文章を書いたりして指摘されても、何がおかしいのかわからない。

既存のセンター試験を継続すると、「大学を出たのにまともな文章を書けない人間がたくさんいる」という現に社会で起きている問題を放置することにつながる。

これはこれで問題だろうに。

できる子をさらに伸ばすなんて目的はほとんど無視していい反面、相対的にできない子はどんどんできなくなっていくので、そこをどうするか、既存のままでいいはずはないと思うけどなあ。

また、新試験の問題形式も、アカデミックなことの基礎だけを教えるのではなく、教育には実社会で役立つ人間を育てるという目的もあるという批判がこれまでずっとなされてきたからこそ、導入に至った経緯がある。

ゆとり教育の時と同じで、適当な居酒屋論議で白紙に戻っちゃうのだろうか。

終わりに

あれこれ雑多に書いてみました。

もうちょっと整理して、英語と記述式を分けた記事にした方がよかったかな。

後々そうするかも。

まあ、いずれにせよ、私は、今回の騒動で鬼の首を取ったように批判をしている人たちの輪には入りたくないな。

既存のセンター試験のままでいいというのは、今後ますます学力の二極化が進んで行く中で、下層を放置するという施策に他ならない気がする。

二年前にムーミンの問題が出たと話題になってましたが、あれをムーミンに関する知識を問う問題ととらえてしまうような子たちもたくさんいる。

センター試験の地理でムーミンが出る

マークシート式なのをいいことに、「その場で考える」なんて訓練を一切せずに、なんとなくで答えて、なんとなくで点数取って、それで終わっている。

それはそれで問題でしょう。

ハッキリ言えば、頭のいい子はどんな環境でも上手くやる。

しかし、そうじゃない子は、教わったことを覚えることが勉強だと思っているから、アカデミックな知識偏重の勉強の過程で論理力などの基礎的な素養を身に着けられない。

「古文の勉強は無意味だ、なぜなら現代社会で『いとおかし』なんて使わないからだ」的な意見を大人になってから言ってしまうような上辺だけの学習しかできない子たちには、真正面から実社会で役に立つような知識を教えた方が良いと思いますけどね。

また、選択肢を増やして自主性を強制するのも一理ある(矛盾してるけど)。

私は、明確な「学校は工場」論者として、今回の制度改革、それなりにいい改革だと思ってたんだけどなあ。

まあ、反対に反対してるだけかもしれないけど。