NETFLIXの『全裸監督』を見た感想


面白すぎて一気見しました。

今、話題絶賛中のNETFLIXの『全裸監督』を3連休に一気見しました。

まあ、村西とおるというAV監督の話なので、見る人を選びますが、結構圧倒されました。

余計なしがらみ無しに実力派の俳優を集め、潤沢な資金を提供し、無意味な制限なしで気鋭の監督や脚本家に自由に作らせる。

そりゃあ、面白いものが出来上がるはずだし、才能ある人達はNETFLIXなどの有料配信会社に集まるでしょうね。

ピエール瀧もそこそこ重要な役で登場してますが、いい味出しています。

演者が不祥事起こすと作品がお蔵入りみたいな流れは、誰が作り出して、誰が維持して、そもそも、何の意味があるんでしょうね。

そういった無意味な制限だらけのテレビじゃ面白い作品など作れるはずないです。

その点この『全裸監督』は、深夜枠でもテレビじゃ絶対に放映できない超過激な作品となっていますが、NETFLIXですから、ピエール瀧含め、見たくない人は見なきゃいいという態度で、作りたいものを作っている充実感がしっかりと伝わってきます。

個人的には、役者さんたちの圧倒的な演技に魅了されました。

ストーリーは無茶苦茶ですが、役者の本気というか、全員が、他の邦画作品では見たこと無いような熱い演技をしていて、そこが何より印象的。

また、全体を通して、テンポがいい。

これはNETFLIXチームの参加が要因かな。

バカバカしいエピソードの連続なのですが、そもそも私たちの生活なんてバカバカしい瞬間の連続で、ただ一人一人は真剣にやっているというのが、この世の中なわけですが、それと同じで、演者さんたちがリアルな人間を演じていて、そのせいか、バカバカしいでは片づけられないリアリティを持っています。

美しいだけ悲しいだけといった話を、役者さんがその話に合わせて演技するような、白々しい作品の真逆を行く作品になっています。

本当の意味で大人向け作品です。

まあ、感想と言えばそれくらいなのですが、やはりなんでこんなに心を動かされたかというと、最近は愛知のトリエンナーレ問題のせいで、表現の自由や芸術性というものについて考えていたからです。

あの問題について語りたくとも、どうしても、芸術論に疎いせいで、「あんなものは芸術ではないと」スパッと断言することに抵抗がある人は私だけではないかと思います。

そもそも、芸術とは何かについて、語れるような芯のある意見を持っていないと。

そんなモヤモヤした気持ちを抱きながら見たからこそ、表現の自由、芸術っていうのは、本来こういうもんなのだよなと、すっきりさせてくれた点が一番、この『全裸監督』に引き付けられた所以でしょうか

ちょっとそこを語ってみます。

全裸監督を見ながら、村西とおる監督の取りたいアダルトビデオと、先日の表現の不自由展に展示されていた作品と何が違うのか、そんなことを考えたときに私が真っ先に思い出したのは、坂口安吾の『デカダン文学論』という評論です。

そうだ、これだと、Kindleを開いて読み直しました。

この、『デカダン文学論』からの引用多めになりますが(旧仮名遣いは適宜修正してます)、全裸監督たる村西作品の芸術性について語ってみます。

まず、出だしが面白いです。

極意だの免許皆伝などというのは茶とか活花とか忍術とか剣術の話かと思っていたら、関孝和の算術などでも斎戒沐浴して血判をおし自分の子供と二人の弟子以外には伝えないなどとやっている。

尤も西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるそうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、曰く言い難しとくる。

私はタバコが配給になって生れて始めてキザミを吸ったが、昔の人間だって三服四服はつづけさまに吸った筈で、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然の筈であるのに、そういう便利な実質的な進歩発明という算段は浮かばずに、タバコは一服吸ってポンと叩くところがよいなどというフザけた通が生れ育ち、現実に停止して進化が失われ、その停止を弄んでフザけた通や極意や奥義書が生れて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろというような当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考えられてしまうのである。

キセルの羅宇(ラオ)は仏印ラオス産の竹、羅宇竹から来た名であるが、キセルは羅宇竹に限るなどと称して通は益々実質を離れて枝葉に走る。

フォークをひっくりかえして無理にむつかしく御飯をのせて変てこな手つきで口へ運んで、それが礼儀上品なるものと考えられて疑られもしない奇妙奇天烈な日本であった。

実質的な便利な欲求を下品と見る考えは随所に様々な形でひそんでいるのである。
 
(中略)鐘の音がボーンと鳴ってその余韻の中に千万無量の思ひがこもっていたり、その音に耳をすまして二十秒ばかりで浮世の垢を流したり、海苔の裏だか表だかのどっちか側から一方的にあぶらないと味がどうだとか、フザけたことにかかづらって何百何千語の註釈をつけたり、果ては奥義書や秘伝を書くのが日本的思考の在り方で、近頃は女房の眉を落させたりオハグロをぬらせることは無くなつたが、刺青と大して異ならないかかる野蛮な風習でもそれが今日残存して現実の風習であるなら、それを疑るよりも、奥義書を書いて無理矢理に美を見出し、疑る者を俗なる者、野卑にして素朴なる者ときめつけるのが日本であつた。

坂口安吾は、こういう、枝葉に走って、本質でないことに没頭して延々と注釈をつけたり、意味のないことに意味があるかのように振る舞う通が跋扈している状況について、日本の幽霊とか妖怪と呼んでいます。

そして、文学についても、そのような状況であると。

ポンと両手を打ち鳴らして、右が鳴ったか左が鳴ったかなどと云って、人生の大真理がそんな所に転がっていると思い、大将軍大政治家大富豪ともならん者はそういう悟りをひらかなければならないなどと、こういうフザけたことが日本文化の第一線に堂々通用しているのである。

西洋流の学問をして実証精神の型が分るとこういう一見フザけたことはすぐ気がつくが、つけ焼刃で、根柢的に日本の幽霊を退治したわけではなく、むしろ年と共に反動的な大幽霊と自ら化して、サビだの幽玄だの益々執念を深めてしまう。

学問の型を形の如くに勉強するが、自分自身というものに就て真実突きとめて生きなければならないという唯一のものが欠けているのだ。

一番大事なことは、自分自身と徹底的に向き合うことなのに、外形や枝葉のどうでもいいところ、それっぽいだけ上辺だけの学問の型を身に着けることに執心するだけで完結していると。

そして、一気に島崎藤村の『新生』という小説の批判に向かいます。

この小説、島崎藤村の自伝的小説で、藤村が自分の姪と関係を持ってしまうのですが、その事実を赤裸々に告白し、自分の罪深さと向き合うという小説です。

そして、それを評価した、平野謙という文芸評論家に噛みつきます。

「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思い入れよろしくわが身の罪の深さを思うところが人生の深処にふれているとか、鬼気せまるものがあるとか、平野君、フザけたまうな。

人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがっていて、たまるものか。

そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。

むしろ最も軽蔑すべきところである。

こんな風に書けば人が感心してくれると思って書いたに相違ないところで、第一、平野君、自分の手をつくづく眺めてわが身の罪の深さを考える、具体的事実として、それが一体、何物です。
 
自分の罪を考える、それが文学の中で本当の意味を持つのは、具体的な行為として倫理的に発展して表われるところにあるので、手をひつくり返して眺めて鬼気迫るなどとは、ボーンといふ千万無量の鐘の思いと同じこと、海苔をひっくり返して焼いて、味がどうだというやうな日本の幽霊の一匹にすぎないのである。

そして、本物と偽物を分けるものとして、作者と作品の距離という話が登場します。

島崎藤村は誠実な作家だといふけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離というものを見れば分る。

藤村と小説とは距(へだた)りがあって、彼の分りにくい文章というものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘というものではない。

このように、藤村の作品は、彼が本当に悩んだところと悪戦苦闘しながら表現したのではなく、常識的な上っ面の悩みをそれっぽく見せようと小手先で悪戦苦闘しているだけであり、作品と作者の間に大きな隔たりがあると言っています。

このやうに、作家と作品に距離があるということは、その作家が処世的に如何ほど糞マジメで謹厳誠実であつても、根柢的に魂の不誠実を意味している。

作家と作品との間に内容的には空白な夾雑物(注:きょうざつぶつ:余計なものの意味)があって、その空白な夾雑物が思考し、作品をあやつり、あまつさえ作家自体、人間すらもあやつっているのだ。

平野謙にはこの距離が分らぬばかりでなく、この距離自体が思考する最も軽薄なヤリクリ算段が外形的に深刻真摯であるのを、文学の深さだとか、人間の複雑さだとか、藤村文学の貴族性だとか、又は悲痛なる弱さだとか、たとえばそのように考へているのである。

藤村は世間的処世に於ては糞マジメな人であったが、文学的には不誠実な人であった。したがって彼の誠実謹厳な生活自体が不健全、不道徳、贋物であったと私は思う。

彼は世間を怖れていたが、文学を甘くみくびっていた。そして彼は処世的なマジメさによって、真実の文学的懊悩、人間的懊悩を文章的に処理しようとし、処理し得るものとタカをくくっていた。

したがって彼は真実の人間的懊悩を真に悩み又は突きとめようとはせずに、ただ処世の便法によって処理し、終生自らの肉体的な論理によって真実を探求する真の自己破壊というものを凡そ影すらも行いはしなかつた。

ちょっと難しいですが、私なりに補足します。

最後の、「彼は真実の人間的懊悩を真に悩み又は突きとめようとはせずに、ただ処世の便法によつて処理し」というのが重要で、藤村は、自分の抱えている問題につき、自分の内側にある根本的な懊悩と格闘するのではなく、あくまで、世間の目を気にしながら、常識とか道徳の枠内で処理していて、その枠内で、文章をこねくり回し、なにか芸術性の高いかのような分かりにくい文章を書いている、そこが偽物だと言っています。

もうちょっと深入りします。

藤村の「新生」の問題、叔父と姪との関係は問題自体は不健全だが、小説自体は馬鹿々々しく健全だ。

この健全とは合理的だということで、自己破壊がなく、肉体的な論理の思考がない代りに、型の論理が巧みに健康に思考しているという意味なのである。

藤村が真実怖れ悩んでいることは小説には表はれていない。

それに又、彼が真実怖れ悩んでいることは決して文学自体の自己探求による悩みではなく、単に世間ということであり、対世間、対名誉、それだけの「健康」なものだった。

彼はちょうど、例えば全軍の先頭に死なざるを得なかった将軍の場合と同じように(この将軍が本当は死を怖れていることは敗戦後我々は多すぎる実例を見せられてきた)藤村も勇をふるって己れと姪との関係を新聞に発表した。

けれども将軍の遺書が尽忠報国の架空の美文でうめられていると同様に、彼の小説は型の論理で距離の空白をうめているにすぎない。

何故彼は「新生」を書いたか。

新らしい生の発見探求のためであるには余りにも距離がひどすぎる。

彼はそれを意識していなかつたかも知れぬ。

そして彼は自分では真実「新生」の発見探求を賭けているつもりであったかも知れないのだが、如何せん、彼の態度は彼自身をすらあざむいており、彼が最も多く争ったのは文学のための欲求ではなく、彼は名誉と争い、彼自らをも世間と同時にあざむくために文学を利用したのだと私は思う。

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私がこれを語っているのではなく、「新生」の文章の距離自体がこれを語っているのである。

彼は告白することによって苦悩が軽減し得ると信じ、苦悩を軽減し得る自己救済の文章を工夫した。

作中の自己を苦しめる場合でも、自分を助ける手段でしかなかった。

彼は真に我が生き方の何物なりやを求めていたのではなく、ただ世間の道徳の型の中で、世間を相手に、ツジツマの合つた空論を弄して大小説らしき外見の物を書いてみせただけである。

これも彼の文章の距離自体が語っているのである。

ここまで来ると、ちょっとわかりにくかった、自己破壊とか肉体の論理といった言葉の意味もおぼろげながら伝わってきます。

戦死した将軍の例えが秀逸です。

要するに藤村は、姪と関係を結んだ罪深さに悩んでいるのだけど、世間体とか常識の中で悩んで、しかも、常識とか道徳の枠内で処理している。

不健全なことをしたのだけれど、正直に悔恨しているかのような態度を、小手先の難解な文章で巧妙に表現しながら、悩み深き真摯な文学者みたいな姿を世間にアピールしようとしているだけ。

姪と関係を結ぶことになった自分自身について、そうせざるを得なかった自分と向き合っていない。

非常識なことをしておきながら、常識人として常識的に処理し、常識的な世間から許されようとしているだけで、肉体の論理、どうにも否定できない自分の本質に向き合い、認めたくない自分を真正面から認めるような自己破壊がどこにもないと。

続いて、その本質を突っ込みます。

彼がどうして姪という肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかというと、彼みたいに心にもない取澄し方をしていると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。

彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。

肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かったのだと思う。

彼は姪と関係してその処理に苦しむことよりも、ポーズを破って知らない女を口説く方がもっと出来にくかったのだ。

それほども彼はポーズに憑かれてをり、彼は外形的に如何にも新らしい道徳を探しもとめているやうでいながら、芸者を芸者とよばないで何だか妙な言い方で呼んでいるというだけの、全く外形的な、内実ではより多くの例の「健全なる」道徳に咒縛せられて、自我の本性をポーズの奥に突きとめようとする欲求の片鱗すらも感じてはいない。

真実愛する女をなぜ口説くことが出来ないのか。

姪と関係を結んで心ならずも身にふりかかった処世的な苦悩に対して死物ぐるいで処理始末のできる執拗な男でいながら、身にふりかかった苦悩には執拗に堪へ抵抗し得ても、自らの本当に欲する本心を見定めて苦悩にとびこみ、自己破壊を行うという健全なる魂、執拗なる自己探求というものはなかったのである。

彼は現世に縛られ、通用の倫理に縛られ、現世的に堕落ができなかつた。

文学の本来の道である自己破壊、通用の倫理に対する反逆は、彼にとつては堕落であつた。私は然し彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至ったことを非難しているのではない。

人各々の個性による如何なる生き方も在りうるので、真実愛する人を口説き得ぬのも仕方がないが、なぜ藤村が自らの小さな真実の秘密を自覚せず、その悲劇を書き得ずに、空虚な大小説を書いたかを咎めているだけのことである。

芥川が彼を評して老獪(ろうかい)と言つたのは当然で、彼の道徳性、謹厳誠実な生き方は、文学の世界に於ては欺瞞であるにすぎない。

非常に辛辣ですね。

藤村のようなかっこつけ人間になってしまうと、失敗を恐れるがゆえに、飲み屋で綺麗な女性を見かけても気安く口説くことができない。

かっこつけているせいで、自分のポーズを気にして、終始気取っている間にチャンスを逃し、自己破壊的に相手を口説くことができない。

だから自然体で接しやすい肉親の若い姪を相手にしたんだろと。

文学を書きたいなら、そういった本当の自分、本当の苦悩を書けよと。

坂口安吾は『堕落論』が有名で、「生きよ、堕ちよ」と堕落を勧めているなんて書かれたりしますが、そうではなくて、道徳や常識に反しているがゆえに通用の倫理に照らせば「堕落」なんだとしても、本当の自分としっかり向き合えよと言っているにすぎません。

世間が作った型にはまって、常識人という役割を全うすることではなく、自分らしく生きることが人生の目的だろと。

いつまで、世間が与えられた無意味な型にはまってるんだよと。

だからこそ、作家のくせに、本当に本当の自分と向き合い、通用の倫理に反逆することなしに、罪を懺悔する体で自分の世間体を巧妙に維持しようと、文章をこねくり回している島崎藤村を批判しているわけです。

この後もいろいろ続きますが、最後は下記のように終わります。

私はデカダンス(注:退廃や背徳の意味)自体を文学の目的とするものではない。

私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、というだけである。

私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だというだけである。

人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開に就ては全く予測することができない。

日本文学は風景の美にあこがれる。

然し、人間にとって、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとっては人間が全部のものだ。

そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。

人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独得の絢(あや)は、一般的な解説によって理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行われる永遠に独自なる世界である。

これを個性と云い、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。

一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。
 
私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
 
私は風景の中で安息したいとは思はない。

又、安息し得ない人間である。

私はただ人間を愛す。

私を愛す。

私の愛するものを愛す。

徹頭徹尾、愛す。

そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。

神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。

かなり長く引用しましたが、ここまで来て、やっと『全裸監督』について書けます。

このドラマの中で、村西とおる監督が、アダルトビデオ業界最大手のポセイドン企画の会長にむかって、お前のところの作品は、カメラの前でただSEXの演技してるだけじゃないか、女優の眼が死んでんだよと、啖呵を切るシーンがあります。

その、村西監督自身は、結構シナリオが滅茶苦茶なのですが、愛の結晶としての美しい性やただ性欲を刺激するだけの性といった贋物ではなく、人間の根源的な部分としての性、人の生死と直結した性、、現実をのたうち回りながら生きる人間の、真実の生活と直結した肉体的な論理としての性を何とかして作品にしようとします。

そして、脚本はあるのですが、カメラや視聴者のことを一切気にせずに、性行為を通じて、人間の生命力が爆発する作品を取ろうとします。

まさに、坂口安吾の言う「通用の倫理への反逆」であり、常識に照らせば堕落という意味で「自己破壊」ですが、現実生活を生きる本当の人間の姿、心の奥底にある欲求の発露という意味で「肉体的な論理」であり、人間の真実の姿である性行為を撮ろうとします。

ここまで読んでる人は少数だろうから、ついに私の頭が狂ったかと思われるのを恐れずに書きますが、私はこれが芸術なんだと思いました。

それに比べて、トリエンナーレ展の出展作品における、作者と作品の距離。

平和への祈りとか、戦争への憎しみとか、徹頭徹尾常識的で、どうすれば見た者の「常識的な」感情を揺さぶって自分の思うような方向にその者を導けるか、また、自分のピュアさを表現できるかといった、世間体を気にした処世術の発現でしかなく、自己破壊は皆無です。

上っ面の御託をちりばめて、そういうのが芸術であるかのように演技しているだけ。

本当は、平和を訴える作品を作りながら、心の中は、特定の人達への怒りではらわた煮えくりかえっているくせに。

怒りに我をされながら、対立勢力を服従させることを夢見ながら、平和を祈る自分をプロデュースせざるを得ない、自分の本当の懊悩と向き合ったらどうなんだろうか。

そして、そこを作品化せずに芸術と主張したところで、誰がどう見ても、特定の運動の道具・象徴でしかなく、政治活動という俗世的活動の道具でしかない。

世間や社会に反旗を翻しているようで、徹底して世間の目を意識していて、通用の倫理の完全に枠内であり、世間ありきの反世間、社会ありきの反社会。

村西作品のような、誰もが心の奥底に抱えている、肉体の論理としての現実への反逆の精神が表現されていないから、上っ面の同調や反発を招くだけで、魂を全く揺さぶらない。

根底にある、肉体の論理としての、怒りや復讐といった感情をストレートに表現せずに、それを社会で実現するために、世間体を気にして、社会に広く受け入れられることを目的として平和への祈りなんて美しさでお化粧する当たり、芸術とは真逆の、実用的な処世術の究極形態。

大好きな『教祖の文学』からも引用します。

本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当った奴でなければ、書けないものだ。(中略)

生きている奴は何をしでかすか分らない。

何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這ひまはつている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。

自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。

芸術とはそういうものだ。

誰もが、自分だけのものを持っているから、自分だけのものの追求が究極的には万人のものとなり、それが芸術。

ここまで書いてきて、自分の頭も整理できた。

私が、全裸監督に非常に好印象なのは、高校生の頃から大好きだった、上記の坂口安吾の文章の意味を、分かっていたつもりだけど、やっぱり「頭で理解」しただけだったところを、「肉体的な論理」として心の底から実感できるところまで、映像化してくれたからだと思う。

村西とおる監督というのは、まあ頭のおかしい人であることは間違いないし、なにやってるんだっていうような感じなんですが、まさに毒に当てられた罰当たりそのもので、ギリギリのところを這い回っている人なんだと思います。

性という誰もが内側に持っている、最も「肉体的な論理」にもとづいて、自己破壊し、通用の倫理に反逆する人間の本質的な部分を映像化しようとした(なお、途中で迷走して常識に囚われた非常識な作品を作ってしまったりもする)。

誰もが、現実の生活の中で、一人の人間として、道徳や常識の圧力を感じ、それに対する反逆としての自己破壊願望を持っている。

そして、そこを映像化するからこそ、万人の魂を揺さぶる芸術になるんでしょう。

それをやろうとして、タブーに挑み続けて、人間らしくたくさんの失敗をした村西とおる監督の生き様。

そのプロセスを、見事に製作陣・役者陣が作品化した。

この『全裸監督』、見事な作品です。

唯一、難点を上げるとすれば、キャストを見ると、大谷麻衣と川上奈々美がサブキャストみたいな扱いになっていること。

そんなことは無いでしょう(まあ、経験とか格とか業界のルールがあるんだろうけど)。

この二人はメインキャストに入れてもいいくらい、作品に欠かせない熱演をしていると思う。

私の上記見解に照らせば、女優の演技はこのドラマの核であり、村西監督が撮りたかったようなものを再現しないと、このドラマが台無しになるところ、見事に見る者を圧倒する演技をしている。

森田望智や冨手麻妙が圧巻なのは間違いないとしても、この二人に負けず劣らず鬼気迫る演技をしていると思う。

いずれにせよ、名作というか怪作で、楽しんで見れるのは間違いないと思うので、観てない人で、大丈夫そうな人は、是非どうぞ。