表現の自由と不自由


なんか大揉めですね

先日、愛知県で行われていた「表現の不自由展」なる自称芸術展が暴力的な抗議活動などの理由で中止に追い込まれた問題で、様々な意見が出ています。

愛知県知事と大阪府知事が子供の喧嘩みたいな真似まで始めました。

そこで私も意見を書いてみます。

この展示会、どうせ表現の不自由展にするなら、発禁になった『チャタレイ夫人の恋人』くらいから始めて(今じゃ普通に売られていますが)、実写版児童ポルノ作品(被害者実在)、いわゆるエロ漫画(被害者不在)、イスラム国が人質を首切りにする動画(残酷動画)、少年犯罪の実名報道記事(プライバシー)、など問題作をあれこれ並べた上で、存在する情報のうち、何がどのような理由でその流通に制限を受けるのかを考えなおす、といった展示にすれば、その中に問題の少女像なんかあっても、今抗議している人たちは抗議しなかったんじゃないかと思います。

その点、今回の展示物は、その一覧を見ると、「あー、あっち系の人たちの展示会ね」と誰もが納得するようなものですから、芸術を騙った特定グループの活動ととらえられて、抗議を受けても仕方がないと思います。

表現は自由だけど、税金の使い道は多数決で決めるもの。

また、公金による補助を受けた展示会が中止されただけで、どこか協力者の自宅なり、別の展示場で展示することは誰も禁止していないんだから、そもそも「表現の自由」は侵害されてないし、書物の発売前の審査・発禁処分などを意味する「検閲」なんて全く見当違いの批判。

まあ、これで上記の問題は解決なんですが、裏側にある本質はそういうことではないと思います。

私は、仮に上記のようなバラエティ溢れる中立的な展示だとしても、公金の補助を受けなかったとしても、また、私人の私的な展示だとしても、天皇の肖像を燃やす作品の展示(今回の場合、厳密には天皇の写真を使った芸術作品を燃やしている映像であり、天皇の写真を燃やすことを芸術と言っているわけではないですが)など認められないと思います。

こここそが問題。

仮に芸術的な価値があったとしても、そんな表現は認められず、その作品に関する限り表現の自由は無い思います。

数年前にフランスで問題になった、イスラム教を侮辱する風刺画も同じで、そんなものを表現する自由なんて認めるわけにはいかないと思います。

天皇制に反対することや特定の宗教を批判することと、侮辱することは異なり、そんな表現は、国民の意思たる法律として規制することもやぶさかではないです。

私はそういう意味では、今回の展示の主催者側からすれば、典型的な、「危険な全体主義者」になるんでしょうね。

こういうことを言うと、人権に対する勉強不足、表現の自由は絶対だという人たちが出てきます。

特定の表現行為につき、認められるかどうかは国家が決める問題ではなく、絶対的な「表現の自由」という自由・権利が国家よりも先に存在するのだと。

なわけないと思うので反論してみます。

まず、自由主義と民主主義。

自由主義というのは文脈次第の多義的な用語ですが、一般的には、一人一人がその価値観に従って自由に生きることを尊重しようとする思想であり、理念・思想です。

その点、民主主義というのは、技術論です。

単に、国家的な意思決定は国民の多数決で決めるという仕組みの話です。

一番納得感があるというだけで、それが美しいわけでもなければ、それを実践すると社会が良くなる保証があるわけでもありません。

しかし、民主主義に関しては話がややこしくなりがちで、真の民主主義はどうのこうのとか、民主主義とは自分と異なる意見を持つものを尊重する理念であるとか、理念・思想じみたものを持ち出す人たちがいて、話がおかしくなります。

そもそも、憲法からして混乱してたりします。

憲法を読むと、主権が国民に存在することを高らかに宣言しています。

ただ、主権は国民にあると、憲法に書いてあるのと、トイレのドアに書いてあるのと、何が違うのか。

もちろん、憲法という権威あるものに書いてあるからもっともらしく受け止められるわけですが、では憲法の権威というのはどこにあるのかと言えば、主権者たる国民が作ったことに由来せざるを得ず、なかなかの循環論法になっています。

主権は国民にある、それは、主権者たる国民がそういうのだから絶対なのだと。

まあ、そんな感じで、いろいろ考えていくと、結局頭の中でぐるぐる考えているだけという話になります。

さて、表現の自由。

これも、自由主義者からすると、人間は生まれながらにして表現の自由を持っていて、それを侵害することは何者にもできないという理念になります。

国家による自由の侵害などもってのほかで、国家権力が個人の自由を侵害しないように手足を縛るものが憲法である、なんて話になります。

まず権利があり、次にそれを邪魔する存在として国家が出てくる。

まあ、フランス革命当たりの絶対君主制を倒すためのスローガンをそのまま現代も受け入れているような感じです。

当時は、宗教という絶対的な存在を疑い、人間の理性を尊重する啓蒙主義の真っ最中ですから、個人は自由であるという根拠は何かという問いに対しては、「自然法」という概念があって、どこにも書いてないけど、一定の知性を備えた理性人であればだれでも納得できるルールに書いてある、という建付けでした。

とにかく、生まれながらにして自由な個人と、それを何かにつけて妨害してくる国家権力。

そういった、単純な対立関係で社会を見ている人からすると、今回の表現の不自由展もわかりやすく、人が生まれながらにして持っている表現の自由を公権力が侵害したということになります。

しかし、いつまで19世紀当たりの個人vs国家のような価値観を維持しようとするのか、私は不思議です。

人は生まれながらにして自由といったところで、イラクやシリアの難民を見ればわかるように、人は国家を棄てた瞬間、人権も平等もありません。

頭の中で、国家がなくても、自然法により、人間には自由と平等が与えられているといったところで、現実には国家が無ければ個人もないです。

そして、国家の在り方については、誰だって特定の人間に決められるのは嫌だから、みんなで多数決で決めようという民主主義になっています。

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ポイントは、民主主義により特定の表現を禁止することができるのか。

ここに、最近の思想的な対立の根幹がある気がします。

人間には自然法によって与えられた権利があり、民主主義的な多数決によっても奪えないというのは、宗教と同じです。

99%の国民がそんな表現行為は認められないと言っても、それに対し、どこにも書いてない「自然法」を理解できない多数派が間違っているのであり、民主主義よりも優先する理念があると主張するのであれば、まさに宗教です。

ポピュリズムや反知性派といった批判もこの文脈で使われます。

多数決が国家や社会を「間違った」方向に導いていると。

そして、その人たちは、理性的に考えれば自分達の正しさは誰だって理解できるはずである、と考えています。

しかし、「理解できないのは頭が悪いからだ」というのは、究極的には、「お前は魂が穢れているから神の声が聞こえないのだ」というのと同じです。

もちろん、多数決で何でもしていいのか、という問いをすれば多くの人がノーというでしょう。

しかし、現実社会のルールを決めるには民主主義、つまり多数決以外に方法はありませんから、「多数決で何でも決めていい」という理念には反対でも、現実には多数決でどうにでもなってしまいます。

というか、そうせざるを得ない。

それを否定しているのがある意味現代の裁判所で、裁判員裁判の判決をひっくり返す高等裁判所の裁判官がいたり、正しい/間違っているのモノサシを平然と持ち出して、民主的に選ばれたわけでもないただの公務員のくせに、国民の意向に口出しする裁判官がいます。

司法権の独立も、主権者たる国民によって与えられたはずですが、そこはさておき、国民は感情的で間違いやすいから、裁判官たる私が防波堤となって憲法の理念を実現する、という宗教化が進んでいるのかもしれません。

なんだか、まとまりのないことを書いていますが、要するに、民主主義というものをどう扱うのか、そこが曖昧なわけです。

国民の99%が同意しても奪えない表現の自由があるとすれば、それは一体誰が与えたものか。

それは、自然法により与えられたものである。

それは、人が生まれながらにして持っているものである。

それは、人類の普遍的原理である。

これが宗教じゃなくて何なのか。

国家や社会の在り方を巡る美しい理念の構築に反対しているわけではないです。

しかし、国民の多数派意見より上位の理念があるという考えにはどうしても賛同できないのです。

もちろん、多数派が多数決で少数派を虐殺していいのかと言えば、良いわけないと思いますが、そこは個人の良識に依存せざるを得ず、良い悪いの問題ではなく、それが多数派の意見ならそうなってしまうというだけ。

いやいや、そんな事態は絶対に発生させてはいけない、多数決によってもそんなことをさせてはいけない、という考えは、究極的には、多数決の結論の上位に来る教義の存在を認めることになり、そういう考えこそが、いくら言ってもわからない愚か者を皆殺しにする、という結末に行き着く気がするのです。

悪いやつを殺して殺して殺しつくすと良い社会が訪れるのか。

間違った意見を封殺して、正しい意見だけで社会を運営すると、良い社会が訪れるのか。

もしこれらが間違っているとしたら、それは、絶対的な物差しを持ち出すことに一番の原因があるのだと思います。

もちろん、だからと言って多数派の横暴を放任しろと言っているわけではありません。

ただ、どちらを優先させるかと言えば、多数決にせざるを得ないと思うのです。

ややこしくなっていますが、大事なことは、民主主義(多数決)を最上位に置いた下で、個人個人が互いを尊重するように努めることであり、民主主義に優先する理念が存在し、それを人類の普遍の原理であるなどいいだすと、それに納得いかない人は「まともな人」ではないことになりかねず、そっちの方が恐ろしい事態を招くような気がします。

こういうツイートを見たのですが、民主主義にそんな意味はなく、単なる政治的な技術論と考える私は民主主義者ではないということになるのでしょうか(まあ、言いたいことは十分理解してるつもりだけど)。

特定の表現を規制する法律を多数決で作ったとしたら、それは民主主義ではないということになるのでしょうか。

多数決次第で何でもできるという考えは非常に危険なように聞こえますが(実際危険だけど)、個人的には、特定の教義を絶対的なものとして持ち出す方が、比較の問題として、遥かに恐ろしい結果を招くと思うのです。

例の如く長くなってしまった。

結論として、私は、天皇や国旗や宗教など、他者のアイデンティティの根幹を侮辱するような表現について、「表現の自由」なんて認めるわけにはいかないし、多数決で奪うことも可能と考えます。

もし、それは多数決であっても奪えないのだとしたら、なぜその考え方に多数派が従わなくてはいけないのか是非教えてほしい。

私には読めないだけで、自然法のような、目に見えない絶対的なルールが存在するからなのだろうか。

私はいずれ、「サルでもわかる当たり前」の人類普遍の原理が分からない愚か者として、極寒地の教育施設に送られ、そのルールが分かるようになるまで、肉体労働をさせられるのだろうか。

そこまでいかないにしても、選挙の前に、選挙権を与えるにふさわしいかどうかの見極めテストなんて始まったりして。

バカに一票与えてもろくなことにならん、民主主義や基本的人権を正しく理解している人だけで多数決をすべきなんて。

ナチスも、旧ソ連も、北朝鮮も、遠い昔の話ではないです。

本当に紙一重。