京アニ放火事件の被害者の実名報道について


考えるところを書いてみます。

先日の京都アニメーションの放火事件の被害者の実名公表について、賛否両論があったそうです。

あまりにショッキングな事件なので、個人的に軽々しく話題にするのはやめようと思っていたのですが、少し思うところもあるので書いてみます。

被害者の実名公表については、京都アニメーションが、被害者家族の配慮から、実名公表を控えるように要請していたのに、新聞社などが公表するに至って、賛否両論巻き起こっています。

なお、私の立場として、お涙ちょうだい的なワイドショーネタにするためのマスコミ各社による遺族や関係者への取材は断固反対です。

いい加減にしろと言いたいです。

しかし、被害者の実名公表はマスコミの役割であり、批判されるべきものではないと思っています。

そこで、私がなぜそう思うのかを書いてみます。

まず、自衛隊合祀訴訟という有名な判例を紹介します。

なぜ、この話をするかというと、私はこの判例の解釈を巡って、妻と議論して180度意見を変えるという経験をしているからです。

事件の流れは下記です。

山口県の自衛隊の部隊で、ある男性が訓練中の事故で殉職します。

そして、その奥さんが敬虔なキリスト教徒でした。

殉職した本人は、ある意味典型的な日本人で、生前、特定の宗教への信仰を特段表明したことはなかったようです。

奥さんは熱心なキリスト教徒なのですが、故人の両親の頼みもあり、仏式の葬式を喪主として営みます。

そして、一連の法事ごとを終えた後は、遺骨の一部を引き取り、自身の通っている教会に遺骨を納め、平穏な宗教生活を送っていました。

そんな中、故人が所属していた自衛隊の部隊のOB会が、故人を含む同部隊の殉職者27名を、従前からの慣例に従って地元の護国神社に合祀するという話が出ます。

これを受けて、奥さんは合祀に反対します。

自分は社会的な役割は果たした、自分はいまだ深い悲しみの中におり、これ以上、心の平穏を乱すのはやめてほしいと。

しかし、遺族の一部の意向などもあり、護国神社に合祀され(故人の父も自衛官など、実際のいきさつはいろいろ複雑)、奥さんが精神的苦痛に対する慰謝料請求訴訟を起こしたという事件です。

最高裁まで行きますが、最高裁の判決として、奥さんは敗訴。

理由は、ざっくりいうと、奥さん自身のキリスト教徒としての信教の自由は一切侵害されないわけだから、他人の宗教行為(合祀)を止めることはできないし、そこから生じた不快感に対する慰謝料は認められないというもの(お互い寛容じゃないと信教の自由が成立しないでしょと)。

詳細は専門でもないので割愛しますが、私がこの判例を知った時の最初のリアクションは、奥さんがかわいそうというもの。

何も、奥さんの反対を無視してまで神社に合祀することは無いだろ、と思いました。

一番悲しみの深い遺族の意向を無視してまで、故人を神社に祀る自由など誰にあるのかと。

慰謝料請求は認められるべきと。

そこで、おかしな最高裁の判例を見つけた興奮冷めやらず、妻に家で話しました。

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そうしたら、妻に速攻で、それはあんたが間違ってると一喝されました。

なんでだよと咬み付いたら、死者はみんなのものであり、遺族、ましてや奥さんだけのものではないと言われました。

故人は自衛隊の隊員にだって大事な同僚であり、同じ使命もって時間を共にしてきた仲間たちには彼らなりの故人への想いや弔い方があり、それを邪魔することなど誰にもできないと。

グーの音もでずに意見を変えることにしました。

この話は信教の自由の話ですが、京都アニメーションについても同様の議論が成立すると思います。

やはり、京都アニメーションによる、被害者の実名報道を控えてほしいとの要請は、気持ちは十二分に分かるとしても、認められないのだと思います。

被害者家族や会社関係者への取材を自粛してくれというのは理解できますし、マスコミ各社も従うべきだと思いますが、被害者の実名報道を止めることは会社にはできないと思います。

理由は、死者は、京都アニメーションの社員だったとしても、また、遺族の家族だったとしても、それだけの存在ではなく、特に業種上、不特定多数の人が濃淡有れどつながりを持っており、その人たちみんなのものだからです。

そして、生前関わったすべての人に、その人なりに故人を弔う自由(権利)があります。

それは、直接的なつながりを持っていた知人・友人だけでなく、作品のファンというだけの人も含みます。

そういったことから、新聞には今でも訃報欄があり、一定以上社会的なつながりのある人の訃報は報道しているのだと思います。

これは、見方によってはプライバシーの侵害とも言えますが、生前かかわりを持った人がどこにいるかは故人しか知らず、遺族だからと言って人間関係を全て把握しているわけでもないですから、報道することはマスコミの役割であり、そこは理解しなくてはいけないと思います。

繰り返しますが、「今どういうお気持ちですか」的な、遺族や関係者への取材などには断固反対です。

とはいえ実名報道だけでも、遺族の心の平穏は乱されるかもしれません。

しかし、生前にかかわりを持った人すべてに、その人なりに弔う自由があり、その想いを満たすための報道は社会に必要なものとして受け入れないといけないのだと思います。

実名報道によって、弔問客が増えるなど、遺族の負担が増えるといった問題はありそうですが、それは社会の一人一人の在り方の問題であり、誰にだって、家族・友人・知人等、濃淡いろいろな人間関係を持っているわけですから、相互の寛容が求められると思います。

もちろん、動揺が収まるまで報道は控えるとか、遺族の弔いが終わるまで報道を控えるという配慮はあってしかるべきと思いますが、遺族がダメと言ったら絶対にダメというのは個人的に賛成できないです。

理由は、しつこいですが、死者はみんなのものであり、誰にだってその人なりに故人を弔う自由(権利)があり、究極的には「お互い様」の問題になりますから、私たち一人一人が寛容さを持たざるを得ないと考えるからです。

遺族や同僚の知らないどこかで安否を案じている人に事実を伝えるのもマスコミの役割であり、その仕事は巡り巡って社会の全員に必要なものだと思うのです。