百人一首解説その5:参議篁(11番)と猿丸太夫(5番)


百人一首解説のその5です。

今回は参議篁(11番)と猿丸太夫(5番)です。

読みは「さんぎたかむら」と「さるまるだゆう」です。

これまで百人一首の歌を2首ずつペアで解説してきましたが、そのペアは一応私が選んでいます。

しかし、今回のペアを選んだのは藤原定家です。

藤原定家は百人一首の選者ですが、百人一首とは別に百人秀歌という選集もあり、選ばれている歌はほぼ同じなのですが(3首だけ異なる)、百人秀歌では二首ずつペアで収録されています。

そしてその中で、下記で解説する、参議篁の歌と猿丸太夫の歌がペアとなっていて、非常に面白い組み合わせとなっています。

まずは、百人一首11番の参議篁の歌。

『わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまのつり舟』

言葉は簡単なものの背景が分からないと理解できない歌ですはあります。

「わたの原」というのは、大海原という意味です。

「八十島」は「やそしま」と読みますが、瀬戸内海のたくさんある小島のことです。

「八十島かけて」の「かけて」は、おそらく「掛く(つなぐ)」の意味で、島から島へと、という意味です。

「漕ぎ出でぬ」の「ぬ」は完了の助動詞ですから、「漕ぎ出していった」と訳します。

「人には告げよ」の「人」は都に残っている人たちです。

以上から、この歌の訳は、

島から島へと大海原へ漕ぎ出していったと都の人達に伝えてくれ、海人の釣り船よ

となります。

もう何となくお分かりかもしれませんが、これは参議篁、つまり小野篁(おののたかむら)が島流しにされたときに詠んだ歌です。

船が出発して広い海に出たのですが、周りには漁師の釣り船がプカプカ浮いているだけで誰もいない場面で、その釣り船に向けて独り言を言っているような歌です。

小野篁は、遣唐副使(遣唐使のNo2)に選ばれたのですが(小野妹子の子孫らしいです)、遣唐正使(遣唐使のリーダー)に選ばれた藤原常嗣(つねつぐ)の船が出発前に浸水するという事件が起き、船を交換しろと言われたのですが、嫌だと遣唐使を拒絶したことから島根の隠岐に島流しになりました。

当時、隠岐への島流しというのは、淀川から瀬戸内海に出てそこから迂回して日本海に出るというルートでした。

そして、実際に淀川から瀬戸内海に出たときに読まれたのがこの歌です。

小野篁という人は、幼少より弓馬をたしなみ、また、和歌よりも漢詩文を好むというなかなか剛毅な人であったらしく、この歌も、寂しも感じますが、むしろ島流しにあった割には、気力が満ちているような勇壮な雰囲気も漂っています(ここは個人の感じ方の問題ですが)。

信念を貫いた結果として、胸を張って旅立つ様子が読み取れます。

「都の連中には、俺は元気で大海原に漕ぎ出していったと伝えてくれ」とかっこつけているような気がして、橋本治さんが『ジョニーへの伝言』の島流しバージョンと言い得て妙な事を言っています。

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とは言え、都で暮らしていた貴族からすると、隠岐での生活は想像を絶していたらしく、隠岐についてからは、こんなはずじゃなかったとすっかり意気消沈した歌を詠んでいるようです(文才を認められて二年後に許されて都に戻ります)。

こんな参議篁の歌と藤原定家がペアにしたのが、百人一首5番の猿丸太夫の歌です。

『奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき』

これは読んでそのまんまの歌です。

花札の『鹿』を思い出すことが良いかどうかはさておき、イメージはそんな感じです。

厳密には、この歌は古今和歌集の中では萩の歌特集の中に入っているので、「もみぢ」は紅葉ではなく、萩の黄葉(もみじと読む)だろうと言われていますが、萩なら猪だろというまでもなく、そこまで細かくならなくても解釈はできます。

紅葉を踏み分けながら山奥に帰っていく鹿の鳴き声を聞くと、秋はより一層もの悲しいものになるなあ、でいいと思います。

二句目の途中で区切れを置くことも可能で、すなわち、「奥山にもみぢ踏み分け」で一旦切って、紅葉を踏み分けながら山奥を散歩していたら、鹿の声が聞こえ、物悲しくなったと訳する人もいますが、一般的には、紅葉を踏み分けて山奥に入っていくのは鹿であると捉えられています。

もう一つ補足すると、和歌の世界では、鹿の鳴き声というのは、牡鹿が雌鹿を求める声を意味します。

つまり、「ああ、あの鹿も独りぼっちなんだなあ」とより一層もの悲しくなる気持ちを詠んでいるわけです。

ちなみに、猿丸という人は、実在しない伝説の人物のようです。

しかも、古今和歌集の時代からすでに伝説の人扱いだったらしく、要するに、よみ人知らずの歌について、山奥に住んでいる猿丸太夫という人が読んだものらしいなんて、遊んでいるわけです。

とは言え、36歌仙の1人として選ばれたりしていて、遊びも徹底していておもしろいです。

『方丈記』にも、猿丸太夫の墓を訪ねるなんてくだりもあるらしく、当時の風流人の遊びが伝わってきます

この歌の解説としては、これくらいで、特にありません。

さて問題。

なぜ猿丸のこの鹿の歌と、参議篁の『わたの原』の歌がペアなんでしょうか。

パッと分かる人は遊び心がある人かもしれません。

おそらく藤原定家はただふざけているだけです。

島流しの憂き目にあいながらも堂々と島から島へと隠岐に向かっていく参議篁と、鳴きながら山奥へ紅葉を踏み分け帰っていく鹿をかけているわけです。

一方では、隠岐に向かいながら俺は元気に旅立ったと都の人に伝えてくれとかっこつけていて、他方では視点が変わり、山奥に入っていく鹿の鳴き声を聞きながら、秋はさみしいなあと、しみじみ哀愁に浸っています。

さすが藤原定家と言ったところで、『百人秀歌』には色んなパターンのペアがあるのですが、この二首をペアにするのは、遊び心があって単純に面白いと思います。