百人一首解説その4:西行法師(86番)と皇太后宮大夫俊成(83番)


百人一首解説のその4です。

今回は超有名人の2人で、一人は名前だけは誰もが知っている西行法師。

もう一人は、皇太后宮大夫という大層な肩書がついていますが、藤原俊成で、百人一首の選者である藤原定家の父親です。

もっとも、藤原定家の父親なんて肩書こそ不要で、時代を代表する歌人です。

そんな二人をペアーで選びましたが、二人の歌には共通点があって、一言で言うと、悩みすぎて結局全部自分が悪いスパイラルに陥っている点です。

さて、まずは86番の西行法師の歌。

『なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな』

この歌はポイントが分かれば訳は簡単です。

まず、「なげけとて」というのは、嘆けといって、の意味です。

「月やは」の「やは」は反語で、”何々だろうか、いや、そうではない”と訳すのが古文のお決まりです。

「物を思はする」の「物を思ふ」は物思いのことで、恋の悩みととらえるのが一般的です(必ずしもそうではないと思いますが)。

「思はす」の「す」ですが、これは標準語にはないですが、今でも関西弁などでは残っている「す」で、標準語で「他人にやらせるのかよ」という場合、関西弁で「他人にやらすんかい」といいますが、その「す」で、させるという意味ですから、「思はす」は、思わせる、という意味です。

以上から、上の句の「なげけとて月やは物を思はする」は、嘆けといって月が私に物思いをさせるのだろうか、いやそうではない、となります。

もちろん、受験古文では、「いやそうではない」を付け忘れると大幅に減点されます(無くても十分意味通じますけどね)。

さて、下の句の「かこち顔なるわが涙かな」。

まず、「かこち顔」ってなんだとなって古文の辞書を引いたりすると、恨めしそうな顔とか、それっぽい訳が載っていますが、もれなく例文でこの歌が載せてあるように、おそらくこういう言い方が一般的に存在していたわけではなく、この歌で西行が使った言葉でしかないのだと思います。

したがって、意味はこの歌に即して考えるしかないわけですが、「かこち」は、「かこつける」から来ています。

「かこつける」は漢字で書くと「託ける」とらしいですが、「歓迎会にかこつけて自分が酒飲みたいだけ」なんて言うときの「かこつける」で、本当は関係ない何かを口実にするという意味で、そこから「かこち顔」とは、何かを人のせいにしたような恨めしそうな顔、と訳されます。

以上から、『なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな』の訳は、

月が嘆けといって私に物思いをさせるのだろうか、いやそうではないのに、月にかこつけて恨めしそうにしている私の顔に流れ落ちる涙であることよ、となります。

まあ、これでいいのですが、もうちょっと足したいところでもあります。

月を見て物悲しくなるというのは和歌によくある情景なわけで、月を見たら涙が止まらない、秋の月はなんとあはれなことよ、などとよく詠まれたりするわけですが、そこから一歩進んで、そうはいっても月が涙を流させるわけではなくて、悩んでるのは自分の問題なんだよなあ、と言っています。

西行という人は、23歳で出家しますが、武家の名門の生まれで、裕福で将来はある程度約束された身分でした。

しかし、世の中が嫌になったのか、失恋したのか、それ以外の無常を感じる悲しい出来事があったのかは不明ですが、突然出家してしまった人です。

そして、出家するときに、可愛がっていた4歳の娘がまとわりついてくるのを、俗世への未練を断ち切るよい契機として、足蹴にして縁から突き落として家を出ていったといわれています。

この歌が作られたのは、出家後か前かは分かっていないようですが、そんなストイックな西行が、恋の悩みを歌いつつも、ストイックな自分に縛られているところが面白い歌です。

現代人の恋の悩みも、相手のせいか自分のせいかを区別するのは不可能で、まじめな人ほど、結局全部自分のせいにしてしまうわけですが、それと同じように、悩んだ末に結局己の問題なんだよなと自分に帰ってきてしまうストイックな心の動きが読み取れる歌であるところが面白い点です。

そのスタイルで娘を足蹴にするストイックさを貫くと、己が未練に囚われているだけということになるのですが、恨みがましい涙が止まらないわけです。

その点を考慮して、『なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな』を訳すと下記になります。

月が嘆けといって私に物思いをさせるのだろうか、いやそうではなく、月は無心で照らしているだけで、恋の未練に囚われているのは私なのだ。だというのに、月のせいであるかのように、恨みがましく流れ落ちる私の涙であることよ。

続いては、83番の藤原俊成の歌です。

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『世のなかよ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる』

実はこの歌は、西行の歌と対照すると面白い歌なのですが、まずは歌そのものの解釈をします。

もっとも、この歌も直訳は簡単です。

「道こそ」の「こそ」は強調ですから、道なんて、の意味になります。

「思ひ入る」の「思ふ」は、現代の「思う」よりもだいぶ強くて、思いつめるとか、心を決めて、という意味になり、「入る」は山に入るという意味です。

簡単なので、一気に最後まで行ってしまいますが、「鳴くなる」の「なる」推量の「なり」と考えられ、鹿が鳴いてるようだ、となります。

以上より、『世のなかよ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる』の訳は、

無常なこの世から逃れる方法なんてないのだ、思いつめて人里離れた山奥に来たけれど、ここでも鹿が物悲しそうなに泣いているようだ

となります。

時代は、平安時代の王朝文化の末期、僧兵が暴れ回り、武家が力をつけ様々な動きを見せ、藤原氏の支配も内部分裂で政情は大混乱という時期です。

そんな時期に、思い悩んで里を離れ山奥に来たけど、そこでも鹿が悲しそうに泣いていて、世の中の無常から逃れる方法なんてないのだと、「もののあはれ」を詠んだ歌ということになります。

そして、これが一般的な解釈。

しかし、この歌も深読みしようとすれば出来ます。

そのためにはある背景を追っていく必要があります。

実は、百人一首の選者である藤原定家には百人秀歌という別の歌集があります。

この百人秀歌には百人一首とほとんど同じ歌が選ばれているわけですが(数首だけ違う)、百人秀歌の方は2首ごとにペアーで収録されています。

そして、その組み合わせの妙が面白いわけですが、この俊成の歌と上記の西行の歌がペアーになっています。

藤原俊成は時代を代表する歌人ですから名歌がたくさんあるわけですが、息子の定家はなぜこの歌を選んだのでしょうか。

この歌は俊成が27歳の時の歌と言われていますが、定家は若き日の父の作品に何を見いだし、何をもって西行とペアーにしたのでしょうか。

そこを考えると、歌の見方が変わってきます。

実は、この歌が詠まれた俊成27歳の年というのは、友人である西行が出家した年でもあるのです。

そして、西行だけでなく俊成も思い悩んでいて、悲観的で暗い歌をたくさん詠んでいます。

しかし、俊成は出家しないのです。俊成が出家するのは63歳になってからです。

つまり、この歌、時代は無常感漂う政情不安定の王朝末期で、友人西行が出家し、自身も思い悩むのですが、出家しなかったときの歌なわけです。

ではなぜ出家しなかったのか、その答えこそがこの歌です。

すなわち、世から遁れ(のがれ)ようと山奥に行ったわけですが、牡鹿の鳴き声が心に沁みてしまったのです。

世を捨てる決心をしたはずなのに恋鹿の鳴き声に心動かされる自分がいるわけです。

山奥にいたのは、無常な世界に悩む鹿ではなく、俗世に未練たっぷりな自分だったわけです。

だからこそ、出家をあきらめて、山を下りて妻子の待つ家に帰るわけです。

そう考えると少し訳も変わってきます。

上述の、世の中の無常から逃れようと山奥に来たけどそこも無情な世界だった、ではなくなります。

そうではなくて、『世のなかよ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる』の訳は、

里には人の道などないと思い、遁世する心を決めて山奥に来てみたものの、物悲しそうに鳴いている鹿の声のなんと心に沁みることだろう(出家はあきらめて家に帰ろう)、となります。

そして、定家は百人秀歌で、娘を足蹴にして出家したのにもかかわらず、月にかこつけて涙が止まらないほど恋に悩む西行の歌をペアーにしているわけです。

私は、この俊成の歌大好きです。

なぜかというと、同じような話(?)で坂口安吾の『勉強記』という小説があり、高校生のころから今も大好きで時々読み返すのですが、それを思い出すからです(俊成に怒られそうですが)。

青空文庫で電子版なら無料ですので、読んだことない人はどうぞ。

つづく。