百人一首解説その1:右近(38番)と権中納言敦忠(43番)


いきなりですが百人一首の解説始めます。

先日、用があって実家に帰ったところ、母は体調を崩して寝込んでいたのですが、枕元に私が学生時代に読んでいた百人一首の本が置いてありました。

時々、暇つぶしに読んでいるとのこと。

そして、中学生の甥っ子が学校で百人一首を覚えさせられているらしいので、今度会ったら教えてやってくれと頼まれました。

まあ、私もそんなに詳しいわけではなく、100首暗唱できるとかそんなレベルではありません。

とは言え、学生時代好きだったこともあって結構いけるような気もします。

この長文ブログ、私の父は暇もあって読んでくれているらしいのですが、母は長くてつまらんと読んでくれないとのこと。

そこで、母が私のブログを読んでくれることを願って、私の方で、百人一首の中から自分が好きな歌を勝手に解説していきたいと思います。

ブログのネタ探しも大変で、思いついたのでやってみるという見切り発車なので、気まぐれにやっていきます。

100首コンプリートなどは目指さないのですみません。

能書きはさておき、記念すべき最初の解説は、38番の右近の歌と43番の権中納言敦忠の歌をペアーで解説します。

なお、古典の解説にありがちですが、古き(悪しき)ステレオタイプなな男女観全開で解説しますから、ジェンダーとかにうるさい人はこれ以降読まないようにお願いします。

また、古典文法に忠実な「正確」な訳は心掛けず、歌をそのまま読んでなんとなく意味が分かればそれに越したことはないというスタンスで解説します。

さて、権中納言敦忠は男で右近は女性です。

そして、この二人は恋人の関係にあったようです。

権中納言敦忠は36歌仙の1人ですが、才芸美貌ともに優れていたといわれる人で、こういった色男はロマンチックな歌を詠み、周りの女性からキャーキャー言われるわけですが、まあ、必ずその中に一人くらい、にらみつけている女性もいるわけです。

本当のところ、そこまでタイムリーなやり取りではないのでしょうが、そういう関係を連想させるがゆえに面白いとされる組み合わせです。

まず、権中納言敦忠の歌(43番)。

『あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり』

あいみるというのは、逢い見る(あいまみえる)ということですが、昔は男女は簾を介してあうのが通例であり、直接逢い見るというのは肉体関係を結ぶことを意味します。

しかし、古文の学習でそんな下品な訳を使うわけにはいかないので、通例、「契りを結ぶ」と訳します。

そうすると、この歌の前半はそのまんまで、契りを結んだ後の気持ちに比べれば、という意味です。

下の句の、「昔は物を思はざりけり」ですが、この「昔」というのは、日本昔話の昔の意味ではなく、以前というくらいの意味です。

そして、「物を思ふ」とは、これもそのまま物思いのことで、恋に悩むことを意味します。

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まあ、そんな感じで直訳すると、「昔は物を思はざりけり」とは、以前は恋に悩まなかったなあ、みたいになってしまいますが、上の句がありますからそうではありません。

上の句に「くらぶれば」がありますから、比較の問題で、悩みの内に入らない、という意味になります。

つまり、

契りを結んでから別れた後の、次の逢瀬を焦がれる今の気持ちに比べたら、以前の一方的に想いを寄せているだけのときの悩める気持ちなど、”悩み”の内には入らないなあ、という歌です。

これは、後朝(きぬぎぬ)の歌と言うらしいですが、当時の色男は、恋が成就して契りを結び、朝が来て自宅に帰った後、こういう歌を相手に届けて、一晩過ごしたらもう終わりではなく、一晩過ごすことでより一層あなたを想う気持ちが強くなったよと伝えるわけです。

色男のこういうやり方は今も昔も変わらないかもしれません。

しかし、権中納言敦忠の恋人であった右近からはなかなかエッジのきいた歌が百人一首には選ばれています。

右近の歌(38番)。

『忘らるる身をば思はずちかいてし人の命の惜しくもあるかな』

現代で言う「れる・られる」は当時は「る・らる」ですから、「忘らるる」というのは、忘れられる、すなわち捨てられるという意味です。

「身をば思はず」の「ば」は強調の「ば」で、今でも方言で「そげなこつば言うもんでなか」なんて言う地方がありそうですが(例文は適当)、その「ば」と同じで訳しません。

「身をば思はず」は、(捨てられる)自分の身のことなんか考えずに、という意味です。

「ちかう」は誓うで、愛を誓うの意味です。

つまり、上の句は、捨てられる自分のことなんで想像もしないで愛を誓ったけど、という意味です。

この歌は、これに続く下の句が面白いです。

「人の命の惜しくもあるかな」というのは、そのまんま、人の命が惜しいなという意味で、人というのは、誰かはわかりませんが、特定の人に決まっていて、あなたと訳します。

直訳気味に訳すと、自分がいずれ捨てられることなど微塵も考えずに愛を誓ったけど、あなたの命は惜しいわね、という意味。

これだと、まだ分かりにくい。

もっと意訳すると、

自分がいずれ捨てられることなど微塵も考えずに愛を誓ったけど、神への誓いを破ったあなたに天罰が下って死ぬのだとしたら、かわいそうに思います、という意味です。

恨みの歌なのですが、怨念の歌ではなく、軽妙に皮肉っていて、非常に面白い歌です。

こうしてみると、権中納言敦忠の歌というのは、歯が浮くようなストレートな表現をしただけであまり面白くない歌のような感じがますし、実際、藤原俊成や定家は他の編集した歌集にいれていないそうですが、そうはいっても百人一首に入れてきたのは、この右近との対比が面白いからだろうと言われています。

浮ついていて重みや深みがなくある意味男らしい歌と、クールな女性らしい皮肉の効いた歌。

もうすぐ、こういった解説は世の中から消えるんでしょうね。

つづく。