『会計の世界史』を読んだ感想とその補足


これがベストセラーなのか。

目次

はじめに

最近、『会計の世界史』という本が色んな所で大絶賛されているので、会計好きとして読んでみました。

しかし、感想はちょっと残念というもの。

会計がテクニカルで取っつきにくいというのは理解できます。

とは言え、会計不祥事は後を絶ちませんし、会計基準を巡る議論も迷走する一方です。

そこで、歴史的に会計を眺めて、その発展を段階的に整理していきながら、現代会計の姿を明らかにして行こうとするこの本の試みは評価できます。

しかし、内容が薄すぎる。

人気予備校講師というのは皆、講義の合間に雑談をして、それが面白かったりするのですが、この本は雑談が99%で、会計の話がほとんど登場しません。

ビートルズやダヴィンチやエジソンやらたくさんの偉人のエピソードが登場しますが、会計の発展した時期の同時代に生きた有名人の小話を紹介しているだけで、会計とほとんど関係がないのがポイントです。

特に、現代の会計を考えるうえでの歴史的な視点というものがまったく考慮されずに、歴史トリビアの紹介で終わっています。

レビューでは高評価が連発されていますが、みんな、雑談で使える小ネタを探しているのかな。

この本のはしがきに、会計を解説した本の中には、経理マンのための会計学を解説しているものが多く、今の時代に必要なのは経営者のための会計学を解説したものではないでしょうか的な記述があります。

そして、これを受けて、「これまでの会計の解説本は無味乾燥で退屈なものが多かったが、この本は歴史的なエピソードを織りまぜながら、会計の本質を教えてくれる」などと、意識高い系のビジネスマンたちが大絶賛。

「お客様は神様」とはよく言ったものです。

まあ、感じ悪いので悪口はこのくらいにしますが、この本読んで一番最初に思ったことは、自分は会計が好きなんだなということ。

簿記はほんのちょっとでいいから手を動かすと一気にわかるようになるんですが、手を動かさずに文字を読んで理解しようとするといつまで経っても理解できない分野です。

そこで、手を動かしたくない人用の説明を心がけるのもいいですが、そういう本がベストセラーとなっていると、どうしても需要のないテクニカルな部分を語りたくなってしまいます。

そこで、この本で意図的に避けられている無味乾燥なテクニカルなところを自分なりに補足したいと思います。

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ネタ本

会計を歴史的な観点から説明する本は実はたくさんあって、しかもここ最近少しブームなのかも。

その中でも白眉は下記。

この本は相当面白い。

おそらく、『会計の世界史』の著者もこの本及びこの著者の他の著作から相当影響受けていると思います。

根っこの思想的にはこの本がネタ本でしょう(歴史エピソード満載という意味では、『帳簿の世界史』がネタ本かな?)。

しかし、この本は、会計が大好きな学者が書いた本で、かなりわかりやすいとはいえ、簿記がわからない人は、おそらく読むのは苦痛でしょう。

そもそも、簿記を少しでもかじったことがある人に向けて、現在の簿記を貫く思想がどういう経緯で出来上がって来たかを解説する本です。

そして、無数にある歴史的イベントのどれをピックアップして、どうつなげるかこそが著者の腕なわけで、それが優れているわけですが、簿記の仕組みを軸に非常によく流れをまとめています。

しかし、自分も似たような本を書こうと思っても、それを真似したら、ただのパクリになってしまう。

ということで、同じような歴史を語りつつも、肝心かなめの会計分野への深入りを避けて、代わりにビートルズとかエジソンとかケネディ大統領とかの小話を差し込んでライトにしたものが『会計の世界史』なんだと思います。

その結果、会計の歴史を語りつつも軸となる視点がなく、歴史トリビアの紹介に終始しているだけとなっています。

ということで、私は、パクったわけじゃなくて、リライトしただけだと開き直って、抜け落ちた視点を捕捉してみます。

前提

本題に入る前に少し前提があります。

相変わらずイントロが長くてすみません。

『会計の世界史』では、簿記の仕組みに深入りしないのですが、おそらく、その理由は、簿記の基本中の基本である、元帳と財務諸表の関係を説明するのが面倒だからだと思います。

別の言い方をすると、「勘定」というものが、簿記を実際に手を動かして学んだ人しかわからない。

私もそこから説明はしませんが、おそらく、そこが分かってないと以下の話は理解しづらいと思います。

まあ、経理マンのための会計学ではなく、経営者のための会計学(笑)には必要ないんでしょうけど。

ちょっと毒づきすぎかな。

ヴェネツィアとフィレンツェ

『会計の世界史』も13世紀のヴェネツィアとフィレンツェの話から始まります。

ここら辺が複式簿記の起源といわれているのでそれは問題ないのですが、しかし、一番大事なことが抜かされています。

それがこの記事書こうと思ったきっかけ。

当時、ヴェネツィアは交易で栄え、商業が発達するとともに、帳簿の発達します。

しかし、貴族が支配し、ビジネスは親族(血族)中心に行われていたヴェネツィアでは、家長が絶対的な権力を持っているので、平等な利益配分もなく、すなわち厳格な利益計算もなく、ビジネスの現状が分かればいいのであって、帳簿はただの分かりやすい記録でしかありません。

具体的には、口別損益計算というものをやっています。

「1月仕入れ毛皮」勘定とか、「A伯爵への貸付金」勘定とか、要するに勘定元帳しかない世界で、1月に仕入れた毛皮なら、何個をいくらで仕入れ、それが何個いくらで売れて、何個残っているといったように、個々の取引単位ごとに勘定をつくって管理していました。

別の言い方をすれば、会社単位の損益計算もなければ、そもそも、一定の会計期間を作って、全社ベースで集計するということもされていません。

しかしそれで事足りていました。

なぜなら家長が経営状況を把握できればそれで良く、利益配分も、家長がその権限で自由に決められたからです。

その点、フィレンツェは市民社会で、対等な市民が数人で組合を作り、組合としてビジネスをするという形態が行われています。

そうすると、どっかのタイミングで利益(儲け)を計算して、出資者間で配分する必要が出てきます。

では、どうやって利益を計算していたのか。

実は、これが棚卸法。

ここが面白いところです。

どっかのタイミングで財産目録を作り、資産と借金を洗い出し、その差額を純資産とします。

そして、過去の別のタイミングで作った財産目録の純資産との差額で利益を出します(この時点では1年ごとに利益計算するという概念はないので、タイミングは出資者の1人が脱退する時など適当)。

しかし、この棚卸法には大きな欠点があって、紛失や盗難は分かりませんし、誰かが資産を隠しているかもしれません。

点と点の差額から、利益はいくらですと言われても、納得できないのは心情的に当然。

とは言え、日々の取引を記録している会計帳簿は、複式簿記とは言え、ただ取引を記録しているだけで、利益計算に使えません。

つまり、この時点では、利益は、帳簿とは別に実地棚卸で作った現実資産目録(ストック)の差額から計算していて、複式簿記で記帳された取引帳簿(フロー)はあるのですが、そこが結びついていないのです。

しかし、14世紀になってコルビッチ商会というものが登場します。

この商会が、個々の収益費用勘定残高を最終的に損益勘定に飛ばし、しかも、それを資本金勘定に振り替えるのです。

フロー勘定とストック勘定が結び付けられます。

ある意味、会計の歴史の一番のハイライトはここで、このコルビッチ商会こそが、本当の意味での複式簿記の起源です。

手元にない資産は分配できないので、利益計算の本質は現実有高計算(ストック計算)なわけですが、そこに取引帳簿(フロー計算)が関係してくるわけです。

つまり、ストックにフローが整合的に結び付けられ、ストックの差額計算とフローの合計計算の両面から利益が計算され、それらが一致する体系こそが複式簿記の本質で、利益計算は資産有高の差額によらざるを得ないわけですが、その信頼性が日々積み上げている取引記録によって裏付けられる仕組み(の萌芽)が誕生するわけです。

これこそが簿記の起源であり、借方と貸方の両建てで記帳することなど、複式簿記の本質ではありません。

17世紀オランダ

上述の複式簿記の完成はあくまで帳簿組織というか、ストックとフローがつながるという体系的な仕組みの完成を意味します。

何が言いたいかというと、仕組み上フローとストックは連携されるのですが、フロー記録で計算される利益はまだまだ実用的ではなく、ストックの差額で利益計算はされます。

しかし、17世紀になって当時隆盛を誇ったオランダでいろんなことが起こります。

歴史的には、株式会社の登場などごちゃごちゃとあるのですが、会計的な視点で要点だけ解説すると2つポイントがあります。

1つめは、1年間ごとに行う期間損益計算というものが定着する点です。

2つ目は、状況表と証明表という2つの表です。

この二つは、決算時に作られるようになった内部資料です(そもそもまだこの時点では外部用の財務諸表が無い)。

状況表というのは、資産と負債の明細で、これを使って利益計算をします。

日々の取引記録から損益を計算すると言っても、誤記帳があったり、紛失盗難があったり、資産の実際残高とは合わないのが通常で、手元にある資産しか分配できませんから、利益計算は資産有高の差額で計算します。

フローとストックがつながっても、利益計算はストック計算で行うのがまだ原則です。

しかし、その信頼性を担保するために日々の取引記録で計算される損益を比較対象として持ち出し、それを証明表として作るわけです。

あくまで利益計算のメインはストック計算ですから、この当時はストック重視の会計であり、減価償却はありませんが、貸倒引当金や商品評価減といった、資産の時価評価は既に存在します。

現存する資産しか分配できませんから、評価減を反映した資産の増減から利益を出すわけですが、どうしても期末に一発計算する数字というのは信頼性が無くて、本当のところ、信頼できるのは日々の取引記録の合計である収益と費用の差額としての利益です。

したがって、収益と費用の差額から利益を計算してこれを証明表と呼び、状況表で計算する利益を証明しようという考えが提唱されます。

この、2期間での資産の増減という一発計算によらざるを得ない利益計算の正確性を、なんとかして日々の継続的な取引記録で担保しようという考えこそが、20世紀までの簿記を貫く思想であり、損益計算書中心観の本質といえます。

現代は、貸借対照表中心観が海外を中心に主流で、従来の損益計算書中心観は古いとか、どっちがメインの財務諸表とすべきかなんて議論をしていますが、歴史の展開は明らかです。

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日々の正確な記録こそが信頼性を担保するものであり、簿記の歴史は何とかしてフロー計算をストック計算につなげようと努力する歴史であり、そして最終的に現代簿記ともいえるものが出来たとき時というのは、フローとストックがつながってフロー計算から利益計算(資産というストックの増減)をできるようになった時です。

そういった、フロー計算とストック計算を一致させようとする近代簿記の萌芽的なものが、この収益と費用の計算書を「証明表」と呼んで、ストック計算で算出した利益を日々の取引記録で根拠づけようとする姿勢に見て取れます。

信頼できる日々の取引情報から何とかして信頼できる利益計算を本当は行いたいのです。

19世紀の鉄道会社の登場

19世紀になって蒸気機関車がイギリスで登場し、これが社会だけでなく、会計の世界にも大きなインパクトを与えたのは『会計の世界史』に書いてある通りです。

そして、鉄道会社の登場は、最初に大規模投資が必要で、長期間かけてそれを利用していくビジネスの登場を意味します。

そして、ここで減価償却という考えが生まれます。

上述したように、資産の時価評価というか評価減は13世紀からありますし、固定資産の評価減は16世紀くらいからあると言われています。

しかし、減価償却というのは、期末に固定資産の価値の低下部分を損失として計上するのとはわけが違います。

固定資産の通常の使用による価値の低下部分をあらかじめ計画的に償却して費用にし、収益から回収していくという方法論の登場です。

これは、一時的に評価損を計上して利益を圧縮するのではなく、あらかじめ計画的に投下資本を将来収益から回収していくというものです。

ただ注意しなくてはいけないのは、まだこの時点では、損益計算書自体がありません。

利益計算はストックすなわち資産負債の増減から計算します。

しかし、債権債務の増減から利益を計算しても、手元の現金残高とは関係ありませんから、配当可能利益を計算するために、収支計算書を作成して現金収支を計算していました。

この収支計算書に、現金支出を伴わない減価償却費を載せたという点こそが非常に画期的で、その本質は、実際に資金を使う前に、今期の価値減価分は今期の収益から引いておかないとダメだろという考えで、これが収支計算のようでそうではない損益計算書の起源とも言えます。

そして、これを投資家の求めに応じて公表する鉄道会社などが登場します。

初期に多額の投資が必要で、その後超長期で回収していく鉄道会社の場合、投資家としても巨額の設備が計上されているだけの貸借対照表を見てもあんまり意味がなく、むしろ、投下資本を利用して、1年間でどれだけ稼いでいるのかを明らかにした損益計算書の方こそ重要なわけです。

それをみて、一年あたりのリターンを確認しないと、事業拡張時の追加出資などには応じられません。

17世紀のころから、日々の取引を集計したフロー計算が、利益計算の信頼性と正確性を担保する資料として、証明表と呼ばれ重要視されるわけですが、19世紀になって超長期企業の登場により、有用性という点においても、ストック計算からフロー計算へと重要性がシフトするわけです。

ここらへんから、財産目録と収支計算書の重要性は完全に逆転し、信頼できてかつ、情報としても有用なものが収支計算書で、それを捕捉する資料が、損益計算の残高を集計したものという意味での貸借対照表という近代簿記の原則が始まってきます。

収支計算書+減価償却費という変な表が、利益計算の信頼性を担保する証明表という補足資料から、メインの財務諸表になってくるわけです。

キャッシュフロー計算書

しかし、19世紀に起きたのは鉄道会社による減価償却費の発明だけではありません。

キャッシュフロー計算書の原形を鉄道会社とともに発展した製鉄会社が発明します。

『会計の世界史』には、減価償却費が発生主義の始まりのように書いてありますが、それは少し問題のある表現で、13世紀のころからというか会計というものが生まれたときから帳簿記入は発生主義です。

日々発生した取引を記録するのが帳簿であり、現金ではなくモノやサービスが動いたときに記帳するのが発生主義ですが、売掛金や買掛金は太古の昔からあり、つまり、昔から帳簿は発生主義です。

また、貸倒引当金や商品評価減は13世紀くらいからあり、現金の移動とは関係なくその分資産を減らすわけですから、これは利益計算に影響していて、これも発生主義です。

したがって、13世紀ころの棚卸法で利益を計算していたころから、利益=配当可能資金とはなっていません。

だれもが利益の中身の理解には苦戦していました。

そして、とある製鉄会社で、新規設備投資をしようとしたら資金が全然ないことが判明します。

毎期利益を計上しているにもかかわらず、手元に現預金が全然ないわけです。

そこで、優秀な経理担当者が何をしたかというと、もうかっていた時と現在とで、BSを比較して、各項目ごとに差額を出すのです。

ピンと来る人もいるかもしれませんが、これがキャッシュフロー計算書の起源です。

(これ結構感動しません?)

これをやった担当者はなかなか優秀な人で、二期比較すると、利益剰余金は増えているのに、現預金は増えていないことに気づきます。

何が増えているかというと、原材料と製品在庫が利益剰余金と同じくらい増えていることに気が付くわけです。

そして、自分達が利益と呼んでいたものは、いつでも引き出せる資金ではなく、原材料や製品の在庫でしかないことに気が付くわけです。

簿記を学んだことがある人は分かるように、これは少し間違っていて、いくら発生主義で記帳するといっても、収益は実現主義ですから、利益には資金的な裏付けが当然あり、利益剰余金分の現金がないのは、稼いだ現金を再投資してしまったからです(貸倒引当金が適正な限り)。

しかし、現金と利益を紐づけていないと、こういうことは往々にして起こります。

ここから、貸借対照表の2期比較分析が発展し、最終的にキャッシュフロー計算書として定着します。

現預金との増減と利益剰余金の増減(=当期純利益)は、他の資産負債項目の増減の合計で説明がつくわけです。

こうして、貸借対照表と損益計算書だけでは経営に役に立たなくて、キャッシュフロー計算書も作って初めて経営に有用な財務情報となるというわけです。

有用性と信頼性

19世紀に鉄道会社が登場した結果、損益計算書とキャッシュフロー計算書の登場というビッグイベントが起きるわけですが(まあ、両方ともその起源的なものですが)、本当のインパクトはその裏側で起きています。

長期的な大規模事業を営む会社では貸借対照表より損益計算書の方が有用とか、キャッシュフロー計算が経営に有用とか、有用性という単語が当たり前のように登場するようになるわけです。

もともと、会計は日々の取引を記録すること、そして、期末に行われる利益計算を日々の継続的な記録によって裏付け、その信頼性を担保しようというものです。

したがって、キーワードは信頼性でした。

現実に存在する余剰資金を、信頼できる記録を基にして出資者に分配することが目的でした。

しかし、株式会社が登場したり、投資家が出てきて、いつの間にか、記録・計算・報告といわれる会計の3要素のうち、報告に焦点が当たり、有用な報告が求められるようになってきます。

その結果、有用な財務報告とは何かという観点から会計が語られるようになってきて、信頼できる記録と計算という本来の目的が後退していくようになります。

実際に発生した取引を、実際に支払った金額や受け取った金額で記録して、それを集計するからこそ、財務諸表には信頼性があるのであり、したがって、信頼性の基礎は原価主義です。

実際に発生したままに記録するから信頼できるわけです。

しかし、有用性という観点から財務諸表を見直すと、期末の資産が取得した原価で計上されており、時価との乖離が放置されています。

19世紀以降、損益計算書が独自の意義を持つようになって、減価償却をはじめとしたさまざまな進化を遂げて会計がどんどん複雑になるわけですが、その反面、信頼性の源である原価主義だけは変わりません。

しかし、複雑なルールのわりには原価で記録など、そんな財務諸表は役に立たないと言い出す人たちが登場します。

それは、60年代70年代のアメリカのM&Aブームの時で、企業間比較をしたいのに、各企業が同じ資産を持っていても、買った値段が異なれば異なる価格で計上されているので、企業間比較ができないわけです(この当時はインフレも問題)。

しかも、アメリカやイギリスでは、徐々に製造業が力を失い、金融業が力をつけていました。

M&Aなどで会社をモノであるかのように売買する金融業者としてほしいのは、意思決定に有用な情報だったわけです。

そして、そこから時価会計ブームが始まります。

説明責任と受託責任

ネタ本として紹介した本の既述の中で私が一番面白いと思ったのは、スチュワードシップという、日本語では受託責任といわれる単語の説明です。

スチュワードシップというのは機関投資家の行動規範としてもつかわれますが、ここでは会計用語として説明します。

会計はAccounting(アカウンティング)ですが、Accountability(アカウンタビリティ)というのは説明責任を意味します。

つまり、過去の取引を正確に記録し、過去と現在を説明する責任(Accountability)を果たすための道具が会計(Accounting)。

しかし、時価評価が大好きな国際会計基準とかは、Stewardship(受託責任)という単語を使うようです。

これは、もともと、荘園の管理者の責任を意味する単語で、財産管理者の責任といえます。

Stewardship(受託責任)がAccountability(説明責任)と何が違うかといえば、過去と現在を説明するだけでなく、将来予想への含みを持たせている点です。

これは企業の経営者の責任もそうで、過去の取引を記録し現状を報告すればその責任を果たせるのかといえばそうではなく、現在の延長として将来がどうなるかについても責任を負っています。

Accountabilityを果たすための決算書というのは、取引を実際にあった取引価額で記録して集計するという原価主義になるわけですが、Stewardshipを果たすための決算書は、将来から見て今がどういう状況であるかを説明しないといけないため、各資産を将来の収益を生み出す源泉ととらえ、いくら将来収益を生み出すかで評価する必要が出てきます。

これが時価会計、正確には現在価値会計というもので、将来の収益を予想して、それを数式モデルを使って現在の価値に直して、それで帳簿に記載する価格を決めます。

決算書を見て、企業の将来の収益獲得能力や成長性が分かるのは有用なわけですが、過去の記録ではなく将来の予想が計算に入ってくるため、信頼性は後退せざるを得ない面があります。

これが現代の会計基準論争を巡る一番の争点です。

過去の取引を正確に記録しただけでは投資家の役に立たないから将来の見積もりも反映させるべきという立場と、過去の正確な記録こそが信頼性の源であり将来収益の反映なんていう信頼できない要素を入れたらかえって役に立たないという立場の争いです。

信頼性と有用性の間のトレードオフを延々と議論しているのですが、それぞれが、どっちも満たすと主張しているので平行線です。

でも、この記事では現代は深入りしません。

まとめ

簿記の歴史を、信頼性と有用性という視点からざっくり書いてみました(参考文献にべったり準拠して)。

簿記の歴史を追っていくと、日々の取引記録こそが信頼性を担保するという思想が常に中心にあります。

複式簿記における、ダブルエントリー、すなわち借方と貸方をペアで記録するという点はそんなに簿記の本質ではありません。

現実に手許にある資産しか分配できないわけですから、利益計算は有高計算によって行われるのが当然なわけですが、期末の一発計算というのはどうしても信頼性に欠けますから、日々の取引記録で信頼性を担保できる仕組みが望まれました。

そこで、14世紀にフロー計算とストック計算を連携させる思想が登場し、17世紀になると資産の増減をフロー計算(証明表)で根拠づけようという動きが出てきました。

そして19世紀になると、収支計算書に減価償却費を入れることで、ついにフロー計算たる損益計算書で利益を計算するという動きが完成します。

しかし、この減価償却費の登場は、フロー計算が単に過去の正確な取引記録だけではなくなったことも意味します。

そしてその裏側で、投資家や株主の存在感の増大に伴い、財務諸表は有用性を軸に議論される状況が発展しました。

その延長に現代の複雑な会計があり、昨今の時価会計ブームの特徴は、株主中心観の物言いが幅を利かせた結果、財務諸表の有用性という考えを中心に物事の議論がされる点にあります。

「現実の資産有高というストック計算」と「実際に起きた取引の記録というフロー計算」という信頼性のある二つの現実記録を、ボトムアップでどう結び付けて財務諸表で見せるかではなく、どういう財務諸表があるべきで作られるべきかというトップダウン型の理念先行の議論になっています。

その結果、役に立つはずの最新型財務諸表を作成するプロセスで企業の不祥事が毎年起こる事態となっています。

資産の価値は将来にどれだけ収益を獲得するかで決まるという理論は分かりますが、それをどうやって計算するのか。

会計の目的が利害調整から情報提供に移行した結果、信頼性から有用性に軸足が移ったとも整理できますが、歴史的にみれば、会計とは言えないものになっているとも言えます。

もちろん、監査法人や公認会計士が監査しています。

しかし、彼らがチェックしているのは、将来収益の見積もりにあたって基準を守っているかであって、将来収益の予想そのものではありません。

未来の予想は誰もできませんし、第3者がチェックできるようなものではありません。

福島第一原発だって、専門家が安全基準を守っているかどうか毎年チェックしていました。

しかし、チェックしていたのは基準を守っているかどうかであって、今となっては、基準に適合していましたという証明に何の意味があったのか分かりません。

今も専門家たちが、何が有用な財務諸表なのかを議論して、会計基準を進化させています。

信頼性を差し出して手に入れた「有用な」財務諸表作成基準と、それに準拠して監査法人のお墨付きを受けた財務諸表が本当に有用なのか、そこら辺を考えるためにこそ、歴史を学ぶ意義がある気もします。

歴史の延長としての現状の理解で終わってはだめで、現存する最先端のフレームワークも必ず津波に押し流される時が来ます。

学ぶことの本質は、そういう事態を乗り越えられるように、知識を吸収するだけでなく、疑い、超えようとする試みにあります。

そしてそのためにこそ歴史があり、現在のフレームワークが出来る経緯を学んでおく必要があるわけです。

その視点のない歴史本など雑学本の域を出ていないと思うわけです。

終わりに

止まらなくなってきたのでここらへんでやめます。

『会計の世界史』を読んで、大事なところが抜けてるじゃないかと思ったので書いてみました。

しかも、あまり人気のないネタ本の方に全部書いてあるので、紹介してみました。

最後は少し反時価会計過ぎかな。

とは言え、時価会計の難しさは現代資本主義の難しさに直結します。

企業に何の興味もなくて、株価だけ見て株を売買するような投資家が今はたくさんいます。

企業からするとそんな連中は相手にしたくないというのが本音で、自分のビジネスを理解して長期的な視点で応援してくれる株主こそがほしい。

そして、財務諸表だって、そういった株主のために役立つ情報を載せるべきで、どっちの会社を買おうか現在の数字だけを検討対象にする投資家のために有用な情報を提供する時価会計なんて興味もないのが本音でしょう。

過去からのビジネス実績を継続的な視点で開示する損益計算書こそ見せたい財務諸表です。

しかし、イナゴのように市場に押し寄せて、毎日売ったり買ったりしている短期投資家作り出す流動性があるからこそ株式市場及び上場企業が存続できるとも言えます。

長期的な投資家と短期的な投資家、どっちを見て会計は進むべきなんでしょうか。

オラついた攘夷浪人としては、なんでもかんでも外国の真似しようとする開国派を見ると切りたくなるのですが、本当のところ、この問題は難しいですね。

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