異常事件における原因究明の点と線


最近は気持ち悪い事件が多いですね。

ただ、凶悪事件や異常事件のニュースに触れたときには注意すべきことがあります。

それは、人間は因果関係を見つけて納得しようとする傾向があるという点です。

久しぶりですが、ファスト&スローからです。

著者がイスラエル空軍に招かれてパイロット育成への助言を頼まれたときのエピソードが登場します。

失敗を叱るよりは能力向上をほめる方が技能育成には良いという話を著者はします。

すると、一人の空軍の教官が異議を唱えます。

実際の経験としては、ひどい飛行をしたときに怒鳴りつけてやると次は良くなるし、良い飛行をしたときにほめるとたいていの場合次は悪くなったりする、という話をするわけです。

だから、ほめるのは良くて叱るのはダメだという話をしないでほしい、実際は逆だというわけです。

しかし、その点を数理心理学者に説明させると、心理的な説明は登場しません。

技能レベル100のパイロットがいたとしても、当然、毎回100点の飛行ができるわけではありません。90点くらいの時もあれば110点くらいの時もあります。そして、時には50点の時もあれば150の時もあります。

そういったものを平均すると100くらいになるからそのパイロットの能力は100なわけです。

したがって、叱られるようなひどい飛行をした次の飛行でよりよい飛行をしたり、ほめられるような良い飛行をした次に出来の悪い飛行をしたりするのは、平均への回帰という統計学的によくある現象で、事前に褒めたか叱ったかはおそらく関係ないというところになります。

しかし、教官としては、無意識のうちに目の前にある事実を納得しようとするので、叱ったから良くなった、ほめたから悪くなったと、ありもしない因果関係を見つけてしまうわけです。

こういう話は凶悪事件が起きた時にも登場します。

有名なのが1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件です。

この異常な事件が起きた時、マスコミは真っ先に学校周りの取材をはじめます。

教師との関係、友人との関係、学業不振、いじめ等学校関係で何か原因ぽいものを探そうとします。

しかし、「思い起こせば変わった子だった」的な話は出てくるし、変なエピソードも出ては来るのですが、年頃の子にありそうな話ばかりで、国中を震撼させた事件と結びつくような異常性には結びつきません。

そうすると、次にマスコミが目を向けるのは家庭です。

両親の不仲とか、家庭内暴力とか、虐待とか、そういう話をかぎつけようとします。

しかし、出てこない。

いわゆる普通の家庭で、しかも家族関係は非常に良好だったという話しか出てきません。

そして、ついに登場します。

「今、普通の子が危ない」的な話が。

まあ、ここまでくると、因果関係を見つけ出したのかどうかすらも怪しいですが、今を強調することで、うっすらと「時代」の影響を匂わせ、因果関係的な説明をしようとはしています。

特殊な話を特殊ではすませずに、どうしても原因を究明しようとするわけです。

これに拍車をかけるのが専門家と言われる人たちです。

貧困問題の専門家は貧困、虐待問題の専門家は虐待、教育問題の専門家は教育、いずれにせよ、専門家と言われるインテリの先生方は何とかして、自分の専門分野と結びつけて事件を解明しようとしますから、結局、「幼少期に~だった子供は成長すると~になる」的な怪しい因果関係論を持ち出して話を混乱させます。

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社会学の専門的知識なんてものは、実践しようとすれば(その必要性はさておき)、予防施策実施の前提としての原因究明以外に用途はありませんから、その知識の実践は必ず因果関係をひねり出すことにつながります。

そんな感じで、異常事態が起きると必ずテレビに、それっぽい肩書の専門家が主観全開の怪しい因果関係論を連れて登場します。

さらに、何らかの形で因果関係をひねり出そうとするといったときに、今の社会は一つのトレンドがあります。

それは、心理的なアプローチをとる点かと思います。

これは差別問題が根底にあるような気がします。

我らが憲法は13条で個人の尊重を高らかに謳い、それを受けて14条で法の下の平等を宣言して差別を禁じます。

何で差別がいけないのかと言えばそれは個人を尊重しないことにつながるからです。

逆にいうと、そこから差別の定義が出てきます。

ある人を、その人が所属する集団とか属性に着目して、その集団への偏見とか先入観に基づいて判断することが差別です。

それをすることは、個人を個人として扱わないことを意味するから許されないわけです。

その結果として、昔は非常に多かったのですが、異常事件が起きた時に、犯人に関して、その宗教や政治的信条、親の職業や社会的地位、生まれた地域、人種や性別といったグループ化しやすいものに注目した報道というのはタブー中のタブーで一切されません。

そして、仕方がないから、個人に着目して、その外部的な環境になるべく触れずに、極めて個人的な内部の心理面に焦点を当ててそこからなんとか原因を追究しようとします。

犯人の生い立ちを非常に詳細に追っていき、何が異常な犯行性を生み出したのかを明らかにしようとするのですが、先生・友人・家族との心理的交流にやたら焦点を当てて分析しようとします。

その結果かどうかはわかりませんが、心理的な要因を見つけようとしつつ、さらに、それを「教育の失敗」でとらえようとするのも今のトレンドのような気がします。

これは教育問題への関心の高まりのせいでしょうか。

心理的な影響に注目されると同時に教育問題への関心が高まったせいで、学校や家庭がどういう心理的な影響を与えたから、ではなく、どこかで教育を間違ったから、といったような捉え方がされやすいような気がします。

ひねり出す因果関係にもその時代特有の型があるということでしょうか。

いずれにせよ、根底にあるのは、異常を異常のままでは済ませられない潔癖性でしょう。

問題が生じたから対策を立てるというのは当然ですが、極めて例外的な異常事件にまで対応して、100%真っ白な世界を目指すような試みになっているのであれば、それはそれで異常な社会です。

何よりも、そうしないといられないという、そうした社会を支えている潔癖性が異常です。

クラスにいる変わった子をキモイ・ウザいと攻撃することと、そういったいじめが存在する学校を悪い学校として攻撃することには、潔癖性という点で根っこは共通しているといったら言いすぎでしょうか。

まあ、いじめ問題をなくそうと頑張っている人達に対して、あんたのやっていることは本質的にいじめと同じだなんて言ったらぶっ飛ばされそうですが、現実的に考えて、社会的に異質なものを一切受け入れない潔癖性を直さない限りいじめはなくならないでしょう。

そして、その潔癖性がある限り、異常事態が起きた時に、例外で済ませずに、二度と起こらないような対策を立てるためになにがなんでも因果関係をひねり出すという構造は存続するでしょう。

さらに、その因果関係を論じる時に「教育の失敗に原因があった」的な共通の型を守ることで、個々の特異点たる異常事態を線でつなぎ、関連性のあるものであるかのように思おうとしているといったところでしょうか。

そう言いつつ、この記事もいつの間に因果関係論になってきたので、ここらへんでやめたいと思います。