相模原事件について思うこと


こういった社会問題の話をするのはやめようと思っていたのですが、この事件が頭から離れないので書いてみます。

この事件、精神鑑定や薬物の影響など、その背景等については専門家の方々が調べている最中ですし、大した情報収集もしていないので、以下は全て私の妄想です。

私は、この犯人の示すナチスドイツに通じる優生学的な思想を取り上げ、この犯罪をヘイトクライムの一種であるかのように捉える考えに違和感を覚えます。

確かに、優生学的な思想に取りつかれ、自分の目指す世界の実現のためにこの事件を起こしたと捉えることも可能でしょう。

一体なぜこんな歪んだ差別意識の塊のようなモンスターが誕生したのかと考えることも可能です。

しかし、どうも私にはそうは思えないのです。

私の直感では、この犯人、いかれた思想の前に、まず最初に、自分が働いた施設にいた障碍者たちを殺したいという思いがあったのではないかと思います。そして、優生学的な思想はあとからその行為を理由づけるために登場しただけではないかと思うのです。

何かカルト的な、おかしな思想に取りつかれてしまったモンスターと捉えると、問題の本質を見失うような気がしてなりません。

犯人を何か理解不能なモンスターと捉え、こんなモンスターをどうして我々の社会は生み出してしまったのかではなく、この犯人は極めて人間的であり、現代社会を悩みながら生きる我々と同じ普通の人間であり、それが紙一重の差でこのような凶悪犯罪を犯すに至った、根っこの部分は誰にでもあるのではないかと思うのです。

私が、この事件を知って、最初に浮かんだのが下記の書籍でして、本棚から取り出して一部読み直しました。

この本のテーマは鬼です。

そして、第4章では中世の鬼、つまり、能に登場する鬼が分析されます。

能に登場するのはいわゆる怪奇的な鬼ではありません。能では、抑えきれない感情が爆発して血の通った人間が鬼になります。

なお、私は能が大好きなのですが、一部のストーリーが大好きなだけで(おめでたい話とかは全く興味なし)、見に行ったことはないですし、見に行ってもどうせ寝てしまうだろう思って行かないというような、能ファンとはとても呼べない人間なので、そこはご了承ください。下記は全て、私の頭の中で再生される能です。

例えば『檜垣』。これに登場するのは鬼ではなくただの醜い老婆なのですが根本は同じだと思うので以下では鬼婆にします。確か観阿弥十八番の一つ。

あるお寺に毎日熱心に通ってくる老女がいます。気になったお坊さんが、毎日熱心に何かを祈っているようだが、何か困っていることがあるのかと聞く。すると、その老女は、ここでは話せないから、家まで来てほしいと願い、お坊さんは快諾する。

お坊さんが言われた場所に向かうと、人気のない辺鄙な場所にたどり着き、そこでボロボロのあばら家を見つけます。恐る恐る入って、誰かいませんかと聞くと、例の老女が応答するが、姿を見せない。そこで、お坊さんが姿を見せるように言うと、老女は、自分の姿をみせても驚かないかと聞く。ただならぬ雰囲気に驚きながらも、そこは坊さん、よいから姿を見せなさいと言う。

すると、奥から、醜い鬼婆が登場します。ひるみながらもお坊さんが事情を聴くと、その鬼婆が自分の身の上を話します。

自分は若いころは大変美しいことで名が高く、言い寄ってきた男は数知れず、都ではあまたの浮名を流し、それはそれは華やかな青春時代だった。しかし、年を取るにつれ美貌は衰え、いつの間にか誰にも相手にされなくなってしまった。それが悔しくて悔しくて、若さ、美貌への妄執から、死ぬことが出来ずに、醜い姿で世をさまよい続けるこんな身になってしまった。どうか自分が成仏できるように念仏を唱えてほしいと泣きながら懇願します。

お坊さんは了解して、お香を焚き念仏を唱え始めます。あばら家の中にお香のにおいが充満し、念仏が響き渡る中、その鬼婆は、若かりし頃の美しい自分とそれを彩る青春時代の華やかな日々を思い出し、恍惚と踊り狂いながら成仏していく。

という話です。

この話は、鬼ではないもののこれぞ能といったすごい話なので紹介したのですが、このような、妄執・悔恨といった、これ以上どうにもしようもない感情が爆発して鬼になります。

いわゆる、ピーヒョロピーヒョロ、ドンドンドン、といったBGMに合わせて般若の面をかぶった人が登場します。

他にも有名どころでは、『鉄輪』があります。

主人公の女は、自分を捨てて後妻をめとった元夫への愛と憎しみが入り乱れ、こんなつらい日々が続くのであれば、自分の人生なんてどうなってもいい、あの二人を殺して報いることが出来るのであれば、女としての美しさや人としての理性も捨てて、無明の闇に永遠に棲む鬼になってやると、貴船神社というところに行きます。

貴船神社で、いわゆる八つ墓村のような格好ですが、髪の毛を結って5本の鬼の角に擬して立て、頭に鉄輪をかぶりそこに松明を三本立て、口にも松明をくわえ、顔や全身を朱に塗り、鬼になるべく祈り続けます。二十一日続けたところでついに本当に鬼になります。

そして、鬼となり、復讐できる力を得たので、元夫とその妻を殺しに行き、あっさり一撃のもと妻の方を殺します。

しかし、残った元夫を殺そうとするその時、もしかしたら、殺す必要はないのじゃないか、また自分のところに帰って来てくれるんじゃないかと思ってしまい、改めて自分の元夫への愛執の深さを思い知るという悲しい話です(本当は安部晴明とか出てきてもっと複雑)。

もう一つは『葵上』。

葵上とはご存知の通り光源氏の正妻です。

スポンサーリンク

そして、主人公は六条御息所という光源氏の元愛人です。光源氏と恋仲だったのですが、葵上が出てきて以来すっかり相手にされなくなっています。

その悔しさから六条御息所の生霊が葵上に憑りつくという話です。

生霊として登場し、脇役の人から、元皇太子妃とも高貴な身分にありながら、嫉妬して憑りつくとは、なんてことをするのかと問いただされます。

しかし、六条御息所は下記のように答えます。

自分の恨みがどんなに強く葵上を苦しめたところで、葵上は生きている限りまた光源氏と契りを結ぶだろう。その点、忘れ去られて一人寂しく死んでいくだけの自分は、夢の中ですらもう二度と契りを結ぶこともない。しかし、自分の光源氏への想いは募るばかりで、何よりそんな自分が恥ずかしく、耐えられない。そんなことであるなら、いっそ葵上を地獄に連れて行ってしまおう。

こうした、もうこれ以上どうすることもできない怒りと哀しみが人を鬼にする理由です。

そして、能のすごいところは、前半では、誰もが一度は見たことのある、うっすらと笑っているけど、何か物悲しい表情のお面をつけているところです。

「かくすことはあらわすことである」という日本的な美意識がさく裂しています。

しかし、その表情自体から、そのお面の裏から般若の面がいつ出てきてもおかしくない危うさを日本人なら誰でも感じることが出来るでしょう。

あきらめにも似た作り笑いの日々の中で、こんな人生のはずじゃなかったという、怒りと哀しみが心の中に鬱積していき、回生の悲願がどうにもならない現実と衝突して爆発したときに、血の通った人間が破滅願望の化身たる鬼に変身するわけです。

別世界のモンスターではなく、血の通った人間がその延長として鬼になるわけです。

相模原事件の犯人に、やったこと自体は到底理解できないとはいえ、こういったものを感じるのは私だけでしょうか。

差別的かもしれませんが、障碍者施設で働くことは彼の望んだ仕事ではなかったのでしょう。本当はもっと、いわゆるカッコいい仕事をしたかったのだと思います。

そうはいっても最初の頃は社会的使命や自分なりのやりがいを見つけて、その思いを表明しながら自分に言い聞かせて、頑張っていたかもしれません。

しかし、完全な想像ですが、周りにいる友人等からは、それ本心なの?とか、一生その仕事していくの?といった心無い言葉もたくさん浴びせられたのではないでしょうか。

現代社会は自由社会です。

個人は自由だし、人格は平等だし、生まれや育ちに関わらずなんでも挑戦できます。その反面、すべて自己責任になります。

自分のしたくない仕事しかできない自分の人生も自己責任であり、実際、あの時ああしておけば的な妄想をすれば、100%社会のせいにはできないのが普通でしょう。

能の世界では、鬼になるのは女性と決まっています。

女性は当時の封建的な社会の中で抑圧された存在でしたから、六条御息所も鉄輪の女も、自分からはどうしようもなく、ただ耐えることしかできない、そういった社会への恨み的なものも多分にあります。

しかしそこでは、社会のせいという感情の逃げ場もあります。

その点、現代社会では、全て自分の責任ですから、やり場のない怒りなんて言いながら、自分というやり場があるわけで、その心の葛藤はすさまじいものがあります。

全部自分が悪い。言うのは簡単ですが、絶望の底で受け入れるのは大変なことです。

そして、葵上でも六条御息所が恨むのは自分を捨てた光源氏ではなく新恋人たる葵上であり、鉄輪でも元夫の後妻がまず殺されます。

よく考えるといずれも逆恨み以外の何物でもないのですが、鬼になってしまった人間の心情として、おかしく感じる人はいないでしょう。

そうするとこの犯人も、障碍者施設で働いていて自分の過去、人生といったものを受け入れられない、消化できないとなった時に、自分を差し置いて、その不幸でやるせない気持ちの根本原因は自分の人生に登場する障碍者自身にあると考えたのは、身勝手極まりないですが、出るべくして出た結論なのかもしれません。

この事件、日本という障碍者への理解が遅れている社会で生まれた事件ではなく、欧米でテロ組織に身を投じる若者が後を絶たなかったり、オウム真理教がサリンまいたりしたのと同じで、自己責任で何でもしてよいよと言われてもうまくいかず、現代社会の中で行き詰った人たちの中で閉塞感が爆発し、今の社会をぶっ壊すしかないといった破滅願望に転化して生まれた事件のような気がしてなりません。

まあ、だからと言って、何一つ同情する余地なんてないし、自己責任なのは間違いなく、極刑以外あり得ませんけどね。

弱者はかわいそう、だから助けよう、社会や環境が悪いみたいな話も大嫌いです。

ただ、ただですよ、ホッブズだかルソーだかロックだか知りませんが、人は生まれながらにして自由であるなんて西洋の念仏を信じて、どこまで自由を追求し行くんでしょうかね。

そりゃエリート層は良いです。

根本に自分は他とは違うというプライドがあり、常に多数派と比較してそれと違う自分を認識できますから、生まれ、育ち、家、土地、国、文化、そういったものを捨てて、自分は日本人ではなく地球人だなどと言って、根無し草でグローバルに生きていけるでしょう。

しかし、ほとんどの人はそうじゃない。何か自分が帰属するものが無いと生きていけない。

個人の自由を礼賛して、徹底して自由社会にして、様々な封建的・伝統的なしがらみから個人を開放して、真空中に無数の個人が浮いてるような社会にしたところで、人は何もないところで生きていくことは出来ないわけですから、本当に自由になったときに幸せになれるのなんて一部のみで、どうしてよいかわからず路頭に迷ってかえって不幸になる人も出てくるし、その人に自己責任ですと言ったところで、次の殺人鬼が生まれてくるだけだと思います。

宗教支配を倒し、絶対王政を倒し、封建社会を倒し、ファシズムを倒し、血まみれになって手に入れた、特定の価値観に縛られず、個人の平等と自由が最高の価値を持つ社会自体にテロリストを生む土壌があるような気がするのです。

なんだか現代社会はとてつもなく難しい問題に直面しているのではないでしょうか。

おかげで、最近自分がリベラルなのか保守的なのかさっぱりわからなくなってきました。