Yahooで面白い記事を見つけました。
正確に言うと、全く賛成できないという意味で興味深い記事ですが、下記です。
<尾木ママのブログはただの暴力?>なぜ尾木直樹氏のブログは炎上するのか
尾木ママの、北海道の小2児童置き去り事件の際の、児童発見までの間における父親に対する批判的なコメントが炎上していることをテーマに、なぜ彼のブログが炎上するのかを考察する記事です。
この記事では、まず、尾木ママが有名人であり、彼のブログは影響力が強く、事実上のメディアであり、その結果、尾木ママのブログでの発言は言葉の暴力になりうるという主張がまず説明されます。
そして、長いイントロが終わると、
以上を踏まえ、「尾木ママのブログ」はなぜ炎上するのか、について考えてみる。
とくるのですが、特に考えることもなくすぐに結論は登場し、
その理由は簡単だ。教育者として暴力やイジメを否定し、その問題解決に取組んでいるはずの尾木ママ自身が、自分のメディアを使った暴力や虐待には、無頓着であるからだ。
続けて
しかも、尾木ママ公式ブログの言動が、世論誘導さえしかねない強い暴力性をもっていることに、多くの人たちが気がついてしまっているからではないだろうか。
とくる(この後はただの尾木ママ批判で炎上理由とは関係なし)。
全体の流れをまとめると、
1.尾木ママは有名人で、もはやそのブログはメディアと言える
2.ブログでの発言は影響力が強く言葉の暴力になりうる。
3.尾木ママは、自分の発言の暴力性に気付いてない。
4.しかし、本人以外の読者はその暴力性に気付いてる
5.だから炎上する。
というロジックだと思います。
しかし、個人的には全然違うと思うので私の見解を書きます。
我々は一人では生きていけません。
だから、親なり友人なり同僚なり、自分以外という意味での他人と関わって、社会の中で生きていきます。
社会の他人たちが自分と全く同じであれば苦労はしないのですが、そうではないので、いたるところで細かい衝突があり、社会生活というのはストレスがたまります。
時々、一人一人意見や価値観が違うから人生は面白いなんて、おめでたいこと言う人もいますが、現実には、自分にとってどうでもよい人ならまだしも、何らかの関係を持っている人が、自分と違う考えを持っていたりすると、理解しあう親友はさておき、大小の衝突を招き、考えの違いを楽しむ余裕などありません。
しかし、誰でも自分ひとりで生きていくわけにはいきませんから、議論したり、議論を避けたり、うまく人間関係をやりくりしながら、社会の中で何とか生きていくしかありません。
この結果、社会の中でうまくやれる人とやれない人が出てくるのですが、うまくやれる人というのは、自分が時々間違うということを知っている人です。
「絶対○○だよ!」なんて言いながら、自分がおっちょこちょいなのは重々承知ですから、心の片隅に、自分が間違っているかもしれないという謙虚さを忘れることはありません。
そうやって、何が正しいのかわからない社会を、自分が正しいと信じつつも、もしかしたら間違ってるんじゃないかと思いながら、他人との距離を上手に保って、真実を求めてフラフラ彷徨います。
しかし、この、何が正しいのかわからないという不安定さに耐えられない人たちがいます。
そういう人たちは、生きていく中で常に直面する不確かさに耐えることが出来ず、真実、しかも絶対的な真実が欲しくて、必死に答えを求めて、探し回ります。
そうはいっても、現代社会では、真実らしい情報が飛び交い過ぎて何が何だかわかりませんから、結局ノイローゼ等の心の病気になってしまう人も多かったりして、それはそれで、現代情報社会の抱える闇の一つです。
しかし、一番厄介なのは、真実を見つけてしまった人たちです。
そういう人たちは、もはや、何が正しいんだ一体!などと心の奥底で叫びながら真実を探す必要はなく、不安から解放され絶対的な安心感に包まれます。
その一方で、自分は間違ってるかもしれないという謙虚さ、つまり、他人と社会生活を送る上で一番必要なものを失います。
そして、現実世界はただの情報になってしまいます。ただの脳へのインプットでしかありません。
何を見ても、何を聞いても、自分の確信と照らし合わせて、良いか悪いかをアウトプットするだけです。
小2児童置き去り事件を聞いても、子供のしつけって難しいなと思うのではなく、自分の中にある確信と照らし合わせて、「間違ってる」と思うだけです。
もはや社会は、何がいったい正しいのか、どうすればよいのかと真実を探し求め、七転八倒しながら成長していくための場所ではありません。
そして、他人は、議論や共同生活を通じて真実発見を助けてくれる多様な存在ではなく、自分と同じ考えを持つ味方か、間違った考えを持つ敵かの二者択一です。
敵は言い過ぎと思うかもしれませんが、真実を知って、全身全霊をそれに投げかけるとともに、その真実の布教にいそしみ、自分は正しいという絶対的な安心感に包まれている人にとって、一番の恐怖は、その立っている土台が崩れることです。
自分と違う思想を持つ人は、自分の安住を壊し、自分を再度底なしの沼に突き落とす敵です。
生きるか死ぬかではなく、殺すか殺されるかに近い世界です。
真実を発見してしまった人は、すべからく原理主義者であり、本質的にテロリストなのです。
自分と違う考えを認めたら、自分が立ってる安心の土台が吹き飛んでしまうわけですから、そんな奴らを許すわけにはいきません。
もちろん、意見が違えと言えども、生活に関係ないことであれば、そこまでむきになる必要はありません。
しかし、生き方や働き方等、自分の生活のそれなりの重要な部分をささげてきた問題に関しては、自分が間違っているかもしれないと考え不安定に耐えながら生きて来た人と違って、自分は正しいんだと幸せいっぱいに生きてきた人、さらにはその布教に努めてきた人にとって、それが間違いであったと認めるのは、天国から地獄に降りるようなものです。
だから、自分と異なる意見に対しては、「そうかなぁ、納得いかないなぁ」といったレベルではない、異常なまでの攻撃性を見せることになります。
尾木ママという人は教育の専門家で、教育みたいなものに対しては相当強い思いがあるのでしょう。
そして、その確信が、愛情とか、優しさとか、非常に抽象的で普遍性を持つものっぽいので、まさに、TPOを踏まえた柔軟性や試行錯誤を一切認めない、”原理”主義者です。
抽象的な原理を信じる人は、どんな場面であっても、その真理が揺らぐことはありません。その真理が抽象的なゆえにどんな場面でも通用する普遍性を持つからです。
どんな場面にも通用し、いかなる時も揺れ動くことなく自分を安心させる普遍的な真理を見つけた人にとって、「そうは言っても現実には時と場合と相手によって・・・」なんて意見は、せっかく見つけた普遍的な真実の土台を壊す悪の手先でしかありません。
結局、イスラム国ならぬ尾木ママ国であり、他者との共存は難しいものがあります。
優しさに満ちた教育を通じて世界全体を幸福にしよう、愛情で世界を征服しようとしている人ですから、時と場合によっては体罰のような理不尽なしつけも必要だなんて考えてしまう連中は、優しさや愛情に満ちあふれた素晴らしき世界の実現を邪魔する敵であって、許すわけにはいきません。
その結果、多くの発言が、内容は非暴力で愛に満ちているにもかかわらず、態様としては他者への攻撃以外の何物でもなくなり、しかも、まわりからすると、何をそんなに熱くなってんだというような熱狂性を帯びてきます。
結局、ポイントは、Yahoo記事の言うような発言の影響力や暴力性ではなく、発言の攻撃性だと思います。
そして、発言自体が、潜在的にも顕在的にも、他の意見の否定という意味で攻撃性を持っているのですが、一番重要なのは、その発言の裏にある何か熱狂的なものが、受け手に対して非常に攻撃性を増幅させる点です。
そして、炎上する理由ですが、それは、ほとんどの人が、社会生活を送る人間の経験に基づく本能的なものとして、こういう人に嫌悪感を抱くからでしょう。
こういう人がいると、会社なり、町内会なり、ありとあらゆる集団行動が上手くいかなくなります。
親友同士の集まりではなくて、ある程度他人性が強くてしかも人数がそこそこいる集まりで、多様な意見をまとめなくてはいけないのに、「絶対○○すべき!」なんて熱い意見の出た時のうんざり感は、想像するだけで気が滅入ります。
ネット社会で、答えらしきものが見つかりやすくなったのをよいことに、科学だか人類普遍の道徳だか歴史が証明する原理だか何だか知りませんが、どっかで拾ってきた自己完結型の理論武装して、真理やら正義やらを振りかざす人間に、みんなうんざりしてるのだと思います。
記事が言うように、尾木ママは有名人だから、その発言の影響力は強く、暴力性を持つという意見はわかります。
しかし、それだから炎上しているわけではないと思います。
「お前は無自覚かもしれないが、お前の発言は暴力になりうるんだ、発言に気を付けろ、父親を傷つけているのが分からないのか」と炎上しているわけではないでしょう。
野次馬の正義感を買いかぶり過ぎではないでしょうか。
もっとシンプルに、「お前みたいなのがいると、会社やPTAみたいなちょっと関係性が薄い集団活動が上手くいかなくなるんだよ」という嫌悪感が発動し、しかも、一人一人がどこかの集団で似たような人間に振り回されて、現実にストレスが溜まっていますから無意識にその思いも想起され、「いい加減にしてくれ」と、炎上するのだと思います。
純粋に、「うざいんだよお前みたいなやつ」「これ以上変な奴増やすなよ」というだけだと思います。
大衆にとって正義なんて方便でしかないのだから、本質に正義感を持ってくるのは、違うんじゃないかなという次第です。
違うかな。
というか強引過ぎかな。