Schoolの語源


Schoolとは、もちろん学校のことです。

School(学校)という言葉の語源はギリシャ語のスコラらしく、スコラとは暇という意味らしいです。

勉強が、日本語の暇つぶしというような、卑小なものだったかどうかはさておき、大事なことは、勉強は暇な時間にしていたもの、つまり、したい人が暇な時間を使ってしていたということです。

そう、勉強というのは、勉強が好きな人がするものです。

それがいつからか、社会的ないわゆる出世の仕組みに組み込まれました。

もちろん、明治時代には、西洋文明のキャッチアップが急務でしたから、高等文官試験のような、学問の優秀さで人材を選抜する制度が出来たのは理解できます。

また、ペーパーテストが一番平等だというのもわかります。大学入試や資格試験等が全て面接だったら、受ける側は納得しないでしょう。

さらに、勉強という名の与えられた課題を要領よくこなす能力が、社会において活躍するために重要な要素の一つであることは否定しません。

しかし、明治維新を生み出した、幕末の英雄たちは、義務教育など受けていませんし、何か統一テストのようなもので選抜された人ではありません。

その多くは侍ですが、みな、激動の幕末時代の中、どう生きるべきかを考えるために、私塾に自分の意志でせっせと通って勉強した人たちです。

もちろん、それが出来たのは、暇だったからです。そして、暇な時間に、自分や社会について考える人達だったからです。

暇だったから、自分や社会について疑問が尽きないから、みんなで集まって、優秀な人材をまねていて、勉強していたわけです。

福沢諭吉なんて、勉強しまくったオランダ語の実力を試すために、横浜に行って、そこにいた片っ端から外国人に話しかけるのですが、さっぱり通じなくて、いるのはアメリカ人とかイギリス人だから当然なのですが、落ち込む暇もなく、すぐに英語の必要性を感じて、鳩居堂にすっ飛んで行って、村田蔵六(のちの大村益次郎)にこれからは英語の時代だからすぐに英語をやろうと言います(これまた『風雲児たち』から)。

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話は戻って、それこそが学校です。

そして、そういう学校でこそ、未来を切り開く人材が育ちます。

相変わらずゆとり教育だ何だと議論していますね。

大学院に通ってるとき、日々科学が進歩していて、大学生が4年間で学ばなくてはいけないことが毎年増えているのに、高校の教科書薄くしてどうすんだよと思っていました。

しかし、時が経って思うのですが、今の子供が、大学4年生になるまでに押さえておかなければいけない知識量ってすごいんじゃないかな。

どの勉強も、横方向の細分化と、縦方向の深化で、詰め込んでどうかなるようなレベルじゃない気がします。

その勉強が好きで、好きだからするという人材を育てて、その人が好きなだけ勉強できる体制を整備するのが一番大事だと思います。

そして、勉強は社会人になったら終わりじゃない。

大人が子供の教育環境を議論するのは当然だし、理解できるのだけど、私として政府に求めたいのは、子供じゃなくて大人が勉強する環境も整えてほしい。

法律にしろ経済にしろ社会科学にしろ理系の科学にしろ、勉強し直したいと思っている大人は結構いるんじゃないだろうか。

スマホで撮影した動画でよいから、国立大学の授業を全部Youtubeで流すべきと思うのは私だけ?コストなんてほとんどいらないでしょう。

ゆとりでも詰め込みでもなんでもよいですが、変えるべきは、標準化された勉強が出世の道具みたいになっている社会の状況でしょう。