疑うことの重要性


メインブログの長い記事の中には苦労して文章を削ったものもあったりします。

その代表が、サプリメント科学との付き合い方という記事です。

まあ、私のメインブログの中でも有数の不人気記事で、定期的に私のところには、私の記事とか考え方を批判・罵倒するメールが来ますが、あの記事を書いてしばらくしてから来た、お前のブログは単なる自慰行為に過ぎないという指摘についてはぐうの音も出ませんでした。

それはさておき、あの長い記事の中に、科学者というのはエビデンスに基づいて主張しているようで、実は異なり、根底には信念があると語っているところがあります。

信念があるからこそ、他者のエビデンスに基づく主張に対しても、そんなわけないだろというスタンスで研究を続け、真の大発見をするという流れです。

そして、話がそれにそれるから削ったのですが、科学者だけでなく、文系においても偉大な学者はそうなのだという長い文章が最初は入っていました。

それをここに紹介する気はないのですが、その部分の最初は、穂積陳重の法窓夜話に載っているベンサムのエピソードから始まります。

これがまたいいエピソードなのでここで紹介したく。

ブラックストーン(Blackstone)が英国空前の大法律家と称せられてその名声嘖々(さくさく)たりし当時の事であるが、その講筵(こうえん)をオックスフォールド大学に開いた時、聴講の学生は千をもって数え、満堂立錐(りっすい)の地なく、崇仰の感に打たれたる学生は、滔々として説き来り説き去る師の講演を、片言隻語も漏らさじと、筆を飛ばしておった。この時聴衆の中に一人の年若き学生がいた。手を拱(こまね)き、頭を垂れ、眼を閉じて睡(ねむ)れるが如く、遂にこの名講義の一言半句をも筆記せずして講堂を辞し去った。その友人がこれを怪しんで試にこれに問うて見ると、かの青年は次の如くに対(こた)えた。

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余は先生の講義が正しいかどうか考えておった。何の暇あってこれを筆記することが出来ようか。

 「蛇は寸にしてその気を現わす」、「考えておった」の一言は、ベンサムの曠世の碩学(せきがく)たる未来を語ったものである。他日Fragment on Governmentを著し、ブラックストーンの陳腐説を打破して英国の法理学を一新し、出藍(しゅつらん)の誉を後世に残したベンサムは、実にこの筆記せざる聴講生その人であった。

私はこのエピソードが大好きです。

理系だろうが文系だろうが、やはり権威を鵜呑みにしてはいけませんね。

タバタ式トレーニングについて田畑先生が主張していることが間違っているんじゃないかと思案している今日この頃です。