『沈黙-サイレンス』を観て


ちょっと感動したので感想文を。

最近、遠藤周作原作で、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンス』という映画を観ました。

解釈は分かれそうな映画ですし、私は映画を通じて自分の見たいものを見ているだけなので、その結果として私の映画評はとんちんかんで有名ですが、感動したので苦手な感想文を書いてみます。

禁教下の日本に布教活動のために渡った恩師フェレイラが棄教したという知らせを聞いて、物語の主人公である宣教師ロドリゴがもう一人の同僚宣教師とともに日本に来ます。

そこでは、キリシタンに対する徹底的な弾圧が行われていて、当然宣教師ロドリゴもつかまり棄教を迫られます。

そして、ロドリゴの目の前で、捕まった隠れキリシタンたちが拷問を受け、棄教しない限り続けると脅されます。

踏み絵を拒否し、壮絶な拷問の末に死んでいくキリシタンたち。

そして、自分のせいでそれらが行われ、自分が棄教しない限り、自分ではなく信徒たちへの拷問が続くという現実に直面する宣教師ロドリゴ。

そんな言語を絶する凄惨な状況にもかかわらず沈黙を貫き何もしてくれない神様。

この映画、信仰とは何かを描いたものだと思います。

ロドリゴが日本にやってきて見た隠れキリシタンたちの実態は、想像とはちょっと違うものでした。

無知で無教養な百姓たちが、キリスト教の念仏を唱えていれば死後に天国に行って何不自由なく幸せに暮らせると信じてカルト的な信仰生活を送っています。

そこにあるのは、高尚な信仰心ではなく、安易な信仰ともいうべき、現実逃避や、天国に行きたいという欲望丸出しの低俗な信仰でした。

拷問の前にも、信徒たちがロドリゴに確認するのは、踏み絵を踏まないで死ねば、なんの苦労もなく楽しく暮らせる天国に行けるんですよねという点。

学校などが無かった当時の無教養な百姓たちの信仰がリアルに描かれています。

その一方で描かれる、知的で教養豊かな、支配者層たる侍たち。

彼らは、支配者層と被支配者層が明確に分離している封建的社会の象徴ともいえるべき存在で、無知な百姓たちをたきつけるキリスト教に危機感を持っています。

徳川家よりも偉い存在なんかを持ち出すな、そんなことしたら、社会の構造が維持できなくなると。

そして、彼ら自身はキリスト教のことをちゃんと理解するとともに、それが無知な百姓たちには正しく伝わらないことを理解しています。

また、過去に渡日した宣教師たちが、「ありがたや」の一言しか日本語を話せなかったこと、すなわち、彼らが日本という国や文化を全く理解せずに、一方的にキリスト教の教義を無知な百姓たちに教えていることも見過ごしてはいません。

宗教の尊さとかはさておき、社会統治の観点からみると、宣教師たちがやっていることは、単に無知な被支配者層の百姓たちに、現実社会の権力者よりも偉い神秘的な存在があるかのようにたきつけて、社会の権力構造を否定する盲目的で狂信的な集団を作り出すだけに終わっていることを理解しているわけです。

踏み絵に関しても、信仰の弾圧のための残酷ないじめというステレオタイプな描写はされていません。

社会統治の観点からの、カルト解体の手段というような側面もしっかり描かれています。

侍たちも、これは形式的なものだ、ただ踏むだけでいい、心の中までも侵害しようというのではない、布教とか集団儀式とかをやめれば内心で信仰するのは構わない、信仰というのは内心のものじゃないか、お願いだから踏んでくれ、それで終わりにしようじゃないかという態度、普通の人間的な態度をとります。

しかし、徹頭徹尾形式的な信仰に陥っている百姓たちにはそれが出来ません。

十字架を握りしめて念仏を唱えたりすることが信仰だと思っているわけです。

そして、天国に行けると信じて、拷問の末死んでいきます。

そこにあるのは、現代社会にも通じる、狂信的なカルト集団の信仰構造そのものであり、当然侍たちも、無知な百姓達がカルトに染まっていく怖さを見るわけです。

社会の支配者層としては、とても放置することはできなかったはずです。

スポンサーリンク

目に見えない神秘的な何かを盲信し、自分の命を捨てることすらいとわない、悪魔に取りつかれたかのような狂信的な態度がそこにあります。

踏み絵を踏まず、拷問の末死んでいくキリシタンたちを見て、ロドリゴも悩み苦しむのですが、苦悩の本質は、なぜこんな状況を見ても、主は沈黙を保ったままなのか、救いの手を差し伸べてくれないのかという疑問です。

つまり、宇宙の果てか異次元かどこかは知りませんが、どこか外部に神様なる存在がいて、自分達を見ていて、何かあれば助けてくれるという神秘主義的な態度です。

封建主義社会で、権力構造の維持という現実のみに専心する侍たちとの対比で、現実社会に存在しない神秘的で現実超越的な存在を信じるオカルト的な態度を宣教師自身がとっているわけです。

そこにあるのは、信じると決めたから信じるという、足のないお化けのような心もとない自己循環で、現実とはかけ離れた態度です。

自己完結した円環構造が宙に浮いていて、地に足着いた状態から、その中へ一気にワープするような飛躍が気になる人も多いかと思います。

しかし、信仰とはそういった非現実的で、非生活的なものなのでしょうか、また、現実の生活に根差していない信仰に意味があるのでしょうか。

おそらく、日本人であり、自身がキリスト教徒だった遠藤周作自身の疑問もそこだったのではないでしょうか。

自分の信仰は、何の根拠もなく神秘的な存在を信じるオカルトとは何が違うのか。

最終的にロドリゴは・・・。

これは見てのお楽しみ。

私はこの映画の最後の20分は蛇足だと思いません。

神様というのは、宇宙の果てとか異次元にいる神秘主義的なものではなく、人間の心の中に、人間を通して存在するのもの。

信仰とは、目に見えない存在を信じるオカルト的なものではなく、心の中の存在する神様と対話すること。

信仰のある生活というものが、単にオカルト的な儀式を取り入れた形式的な生活ではなく、心の中の神様と対話しながら現実社会を生きていくことであり、精神的ではあるけれでも、地に足付いた現実的な生活態度であること。

現状維持を至上命題とし徹底的に現実主義で保守的な侍たちと対比する中で、形式的で安易な信仰心のメッキを打ち砕きつつも、信仰というものが、オカルトではなく、現実生活に根ざした人間的な営みであることを描きたかったんだと思います。。

私自身、無神論者の無宗教なので、一部の原理主義的宗派や怪しい新興宗教などの狂信的な集団に嫌悪感を抱きつつも、心の底ではすべての宗教に対して、根っこの部分では同じなんじゃないか、すべからくオカルト的なものなんじゃないかと疑問を持っていました。

宗教なんて究極的には「ごっこ」でしかなく、生活の本質的な部分とは関係ないと思ってましたが、全然違いましたね。

心の中にあるものを神様と呼ぶかどうかが違うだけ。

遠藤周作さんやスコセッシ監督など、信仰心厚い方々が考えに考え抜いた末にたどり着いた境地。

しかと受け止めました。

この映画、心に刺さりましたよ。

あと、浅野忠信やイッセー尾形の演技も素晴らしかったですが、窪塚洋介は名演技でした。見直しました。解釈が難しいので触れませんでしたけど。

見てない人は是非どうぞ。

なお、実際に映画を見てから、上のようなことはどこにも描かれていないじゃないかなんてクレームはしないでください。

私には見えるんです。