読書感想文が書けないアスペルガーの雑考


あんなもの書けるほうがおかしい。

先日、メルカリで読書感想文が売られているというニュースが話題になっていました。

すごい時代になりました。

読書感想文というのは、私のようなアスペ人間には強敵中の強敵といっても過言ではなく、学生時代には非常に苦労していました。

とにかく書けない。

先生「感想は?」
自分「おもしろかった」
先生「どういう風に面白かったの?」
自分「どういう風に面白いって?」
先生「じゃあ、一番印象に残った場面を教えて?」
自分「飛行機で移動するシーン」
先生「???なんで?」
自分「飛行機が好きだから」
先生「・・・。じゃあ、この場面の主人公の発言はどう思う?」
自分「???(そういう発言する人なんでしょこの人)」
先生「あなたがこの小説の主人公だったらどうするかを考えてみて」
自分「???(この話関係なくなっちゃうじゃん)」

しかも小学校の何年かの時の担任が、授業参観に合わせてクラス全員の読書感想文を教室の後ろに張り出した。

もちろん、私の、「悲しかった、楽しかった、面白かった」みたいな悲しい2行くらいの感想文も張り出されました。

安部公房の『箱男』に登場する、段ボール箱をかぶって都市を徘徊するキチガイに私が共感できるのも、その先生のおかげです。

多数派が多数派であることのみを理由に自分達を正常と称し、少数派を少数派であることのみから異常と呼ぶ。

正常か異常かは相対的な物差しで周りが決めるのであって、知能が健全であって道徳観も備え行動に合理的と呼びうる思慮があっても、多数派に合わせるという物差しが鳴り物入りで登場し、周りの多数派と結論が違えば「異常者」にならざるを得ず、自分が「正常」であることを証明することはできない。

しかも、そこに、社会的相対的事実と客観的絶対的真理の区別がつかない偉い人が出てきて、それっぽい理由の名の下に、多数派の横暴を正当化・絶対化する。

本質的にいじめの構造そのもの。

特定グループの中で少数派であったという相対的でしかない事実が、科学なるものを経由した結果、自然科学的な絶対的な真実であるかのように化ける。

広い宇宙の中、きっとどこかに、アスペルガー症候群の人間が多数派を占め、空気を読むとか共感力とか言って群れたがる少数派に何とか症候群という名前を付けて治療を議論している星があるはず。

「君はあいまいな指示しかできないのかね!」とか、「周りの人を見ないと自分の意見が言えないのかね!」とか、「君には周りが見えなくなるくらい集中できるものはないのかね!」とか、「相手がどうのこうのじゃなくて、自分で正しいと思ったことをするべきじゃないのかね!」などなど。

アスペルガー症候群のWiki読んでみたけど、さっぱり意味不明。

スペクトラムなるそれっぽい言葉でごまかしていますが、あれに、いわゆる変わり者の特性の寄せ集め以外の何らかの内実があると考えている人がいたら、その人達、ちょっと学会の「空気を読んだり」、権威に「共感」し過ぎてるんじゃないの。

Wikiにも、アメリカ学会内における障害や治療の対象と扱うべきではないとの考えが紹介されていますが(本当かどうかは知りませんが)、まあ、10年もしないうちにアスペルガー症候群は障害扱いではなくなるでしょう。

特別扱いして治療ないし援助をすることが状況改善につながるというのは科学神話と歪んだ人権思想が生んだ現代社会の問題児で、副作用が過小評価されすぎだと思う。

社会的な問題は社会的な解決を模索すべきで、社会を単純に個人の集まりと捉えたり、人間を細胞の集合体と捉えるような、分析と称してただ単に細分化するだけの安易な合理主義への逃避はいい加減やめるべき。

心の持ちよう一つで問題が全て解決するかのような心理学もそうですが、安易に何でもかんでも個人の問題に帰着させるのは本当におかしい。

学校にしろ会社にしろどう考えても組織文化自体に問題があることに気付かない人はいないし、積極的に合わせに行く人の心が続々と壊れて言っている中で、合わせない人は合わせない人でそれもおかしいなんて、そんな考えの方がよほどおかしいでしょうに。

科学的治療方法なし、援助という名の孤立化促進、専門家とニセ専門家と患者とニセ患者によるビジネス化、差別・いじめの温床、悪いことしかない。

まあ、ナチスドイツ下でのヒトラー万歳も、ロシア革命での共産主義万歳も、多数派を占めるアスペルガー症候群ではない正常な方々の共感力が引き起こしたことを考えると怖いのでこの辺にしておきます。

さて、読書感想文。

アスペ人間は共感力がないから読書感想文は苦手などと言う人がいます。

よく言うよという感じで、こちらからすれば、共感力が豊富な正常人の方々に共感していただいたことは一度もないですけどね。

共感というのは、異質なものに理解を示さずに、同質なもの同士で同質性を確認し合うことなのでしょうか。

ただ、それって単に、否定の対象をひねり出して、それらを否定しないと自分の正常性を肯定できない根無し草の連中が自分を慰めてるだけなんじゃないでしょうか。

「あいつキモイよねー(その点私らは正常だよねー)」と。

それは、共感力があるのではなく、ほかの人も同じ方向を向いているという理由でしか自分を肯定できず、群れないと生きていけない連中が共感の美名の下に群れているだけでしょう。

そもそも、心の中を全部言葉で説明するのは無理だし、自分にしかわからない自分は誰にでもいるわけで、理解されにくい自分を認識している人はなおさら、ほかの人にも、その人にしか理解できない領域があることを理解できます。

つまり、理解し合えない部分があることを理解するのも大事な共感力で、理解されにくい自分を強く意識している人は、安易に他人の心情など述べません。

次は、アスペ人間には想像力がないから読書感想文が書けないという意見。

何を言ってるんでしょうか。

読書感想文では、もし自分が主人公の立場だったらどうしたかとか、主人公の発言や行動にどう感じたかとかを書いている人が多いようです。

しかも調べたら、感想文の書き方と称してそんなことを教えたり、ありがたがってそんなマニュアルを買っている人も多いらしいです。

しかし、そんなの感想じゃなくてただの独りよがりの妄想。恥ずかしくてかけない方が正常。

平家物語という話があります。

もちろん、平氏の栄華と滅亡を書いた話。

詳細はさておき、平清盛の三男の平宗盛なんて、人物的にはいろいろ問題があるのですが、立場的に平家の看板背負って戦って死ぬしかない。

人は生まれながらに自由だとか平等だとか言うけど、親をはじめ自分を取り囲む境遇のほとんどは選べない。

社会の中でがんじがらめにされて、環境も、他人も、自分自身も、変えたくてもどうにもならず、その中でもがき苦しみながら生きていく。

時に傲慢な態度で乱れたり、最後まで醜い姿を晒しながらも、平家の看板を背負って戦い散っていく宗盛の姿に、自分の力ではどうすることのできない「もの」のあわれを見て、結局は自分に重なるから私たちは平家物語に惹かれるわけです。

その点、上述の読書感想文マニュアルを使うと、もし私が平宗盛だったら教盛らとともに潔く死んで見せたとか、そもそも一族を救うためにつまらないプライドを早々に捨てて源氏を和睦すべきだったとか、あの場面で後白河法皇の提案を突っぱねたのは感情的でよくないと思う、因果応報だなどと、登場人物に共感しながら想像力豊かに表現するのでしょうか。

スターウォーズを見て、私がアナキン・スカイウォーカーなら、暗黒面に落ちずに最後までシスと戦ったとか、オビワンはもう少し優しくすべきだった、指導が厳しすぎたせいでアナキンがぐれてダースベイダーになった反省すべきとかいうんでしょうかね。

まあ、想像力が豊かなのは間違いないでしょうけど、感想というより、妄想、夢想、寝言の類で、作品を読めていない可能性があります。

物語というのは、作者が書いた作り話であって、現実じゃない。

登場人物が、ある発言をするのも、ある行動をとるのも、作者なりにさんざん考えた上でそういう展開にしていて、現実世界に実在する自分や作者と、作者に創造されその作品の世界だけに存在する作中人物たちの間には、明確な境界がある。

そして、その境界を明確に認識することこそ客観的思考の入り口で、とても大事なこと。

もし私だったらどうのこうのとか、作中の行動や発言への批評を饒舌に語る場合、その強い主観的感想の裏で、文章から何が言えて何が言えないのかの客観的判断があいまいになっている可能性があります。

作中人物一人一人の一つ一つの発言や行動はすべて文章化され、また、現実世界とは異なり、作中人物は書かれていることが全てであり、そこにその作品がその作品である理由があるのです。

つまり、自分だったらどうのこうのを饒舌に語るのであれば、作品を作品として読めてない可能性だってあるわけです。

作品を作品として受け止めれば受け止めるほど、もし私だったらなんて思わなくなるはずです。

想像力がないから感想文が書けないのではなく、作品を作品として、また、作品は作品でしかないことを明確に理解しているから、現実世界と混同して、饒舌に主観的感想を語ったりはしないのです。

以上、取りとめもないことだらだら書いていきましたが、要するに、表現力豊かで主観的な文章を書くときには、共感力や想像力は重要なのですが、冷静で客観的な読解をするときには、共感と想像力はできる限り抑えて文章と向き合わなければならないわけです。

もちろん、主観的な感想を表現力豊かに作文する能力があることは全く悪いことではないし、むしろ素晴らしい才能で、その能力が豊かなら伸ばすのはいいこと。

そこまで否定しているわけではないです。

そして、人を最終的に動かすのが理ではなく気であることはまちがいない。

ただ、読書感想文が書けない理由に、子供ながら、客観的思考の萌芽が見てとれるなら、その子に読書感想文なるものが書けないのは自然で、異常者扱いしてその芽を摘むべきではないと言いたいのです。

もしそうなら、主観的表現力は横において、客観的読解力育成に誘導すればよく、読解力がつくことで醸成される感性もあるでしょう。

少なくとも、大人になってから、議論の場で延々と個人的なただの感想を述べる人間になる恐れはないわけだし。

読書感想文なんて書けない人は書けないままでよいと思うのです。

9月1日の夜に言ってもちょっと遅いけど。

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