『AIの遺電子』が面白い


これは老若男女問わず必読では。

いやーすごいマンガが出てきたもんですね。びっくりしました。

『AIの遺電子』というマンガです。

私は最近までこの漫画を知らなくて、最近まとめ買いして読んだのですが、久しぶりに手塚治虫、諸星大二郎、みなもと太郎級の衝撃受けました。

まさに、未来のブラックジャックの話。

主人公は、新医師と呼ばれる近未来のヒューマノイド専門の医師。

最近AI関連の話題が流行りですが、1歩先ではなく、数歩先の未来の話。

AIに人類が支配されるとかそういったターミネーター的な話ではなく、人類とヒューマノイド、そして、人類の知能をはるかに凌駕しつつも社会をサポートする産業用AIが共存する社会(関係は良好)。

『ブラックジャック』では、到底手に負うことのできない自然の摂理のようなものの圧倒的な力の前に翻弄されつつも、無力さを重々承知ながら、精いっぱい立ち向かおうとする、人間の姿を描いていると思います。

そして、人間の生物学的な要素に焦点を当てているため、生物としての個人、実在する個人が話の中心です。

その点、この『AIの遺電子』はちょっと違います。

人類を人工的に作れるところまできた未来の話です。

技術が人類の生物学的な要素をすべて解明したか否かはさておき、工学的に人間と同機能のヒューマノイドが製造可能になっている世界です。

我々は、AIとかロボットとかを考えると、生物対非生物の対立軸で物事を考えがちです。

しかし、生物である人間と生物ではないヒューマノイド、両社は全く違う存在ではありますが、共存する社会を考え始めると、一人一人の生物学的特徴はあまり重要ではなくなって、そこではなく、むしろ人間が社会的な存在であること、すなわち存在の社会性がクローズアップされます。

最近はインスタグラムやフェイスブックを盛って、過剰に自分を演出する人が増えていて、承認欲求社会などと批判的に言われたりします。

しかし、「社会の中における自分の位置づけ」や「自分以外の人間によって決定される自分」以外に、何か確たる自己なるものが存在するのか、また、その存在の証明は可能なのかは難問です。

「自分」が存在するのか、自分以外によって定義されるのが「自分」なのかはさておき、人間を社会的な存在と考えると、生きる意味、人生の目的、自分にとっての幸せといったものは、自分が生物かヒューマノイドかよりも、自分と自分以外との関係に大きく左右されることが分かってきます。

社会の中で果たす役割によって社会的な自分が定義されるのであれば、人生の意味において、自分が生物かヒューマノイドかは関係ありません。実は、知らない間にUFOにさらわれていて、自分の体の一部が機械だったとしても、「自分」は変わらない気がします。

また、自己と他者の間の関係を構築するためのコミュニケーションの核はなんなのか。

本当に私たちは内心の感情の共有をしているのか。

それとも、言葉や表情やジェスチャーといった外形的なシグナルの交換や、時間・経験の共有こそが重要なのか。

ここでも自分や相手が生物であることの重要性はぼやけてきます。

しかし、どうもそんな単純なものじゃないらしい。

ヒューマノイドの母が階段から落ち、父が慌てて脳のバックアップを取る。

しかし、その過程でウイルスが人工脳に混入してしまい、母の調子が日に日におかしくなる。

そして、10日後、母の脳はいったんフォーマットされ、バックアップファイルで復元される。

つまり、10日前の母が目の前に登場することになる。

もちろん、母に直近10日間の記憶はない。

しかし、娘には、調子悪さと戦いながらもご飯を作ってくれたりして面倒を見てくれた母の10日間の記憶がある。

目の前にいる母は母なのか。

どうやら、人間の実質ではなく、その社会性に目を向けても、人間が生物であることの不可逆性が重要な意味を持っていそうです。

人間とまったく同じ社会的役割を果たせるけど生物ではないヒューマノイドを想定することで初めて見えてくる人間の本質。

こんな感じで、考えさせられる話のオンパレードです。

もし私が、タイムマシーンに乗ってタイムスリップして、若い頃の自分に一つだけアドバイスできるとしたら、以下のように言います。

「自分のことを考えるのと同じくらい、未来の世界がどうなっているのかを考えろ」と。

その点、この漫画は、来るべき未来について、非常に大胆な大風呂敷を広げてくれます。

SFというより、壮大な思考実験と言った方がよい気がします。

子供はもちろん、大人も必読でしょう。

それにしても、すごい。

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