日本ではなぜクレジットカード決済が普及しないのか


考えてみます。

はじめに

全決済におけるクレジットカードの割合は、日本では16%、アメリカでは40%、ヨーロッパに行くと50%越えと、日本はダントツで低いようです。

それに関して、アメックスが独自の見解を示しています。
アメックスから見た、日本人がクレジットカードを使わない理由

曰く、もともと小切手が普及していた欧米とは違い、単にまだ現金決済が主流なだけで、クレジットカード決済を避けるような理由は無いとのこと。

つまり、日本人がクレジットカードを嫌う独自の理由があるわけではないと考えているらしいです。

これは本当でしょうか。

まあ、アマゾンや楽天などの通販、おサイフケータイなど、使い始めると便利すぎて手放せないサービスをまだ使っていないだけの人もいるでしょうから、“まだ”普及していないだけという面もあるでしょう。

しかし、私のように、もう財布を持つのを止めようかと思っているくらいのおサイフケータイ派でも、自分の心の中に、クレジットカードへの抵抗感のようなものはあるので、一体それが何なのかを考えてみます。

応仁の乱

先日、イオンの中にある本屋をふらついていたら、売上ランキングの上位に応仁の乱の本がありました。


電子書籍版がなぜか出てないので買っていませんが、これは面白そうです。

内藤湖南という学者がいて、その人が、日本の歴史の分岐点は応仁の乱であると言ったというのは歴史好きなら知っている人も結構いると思います。

応仁の乱の前後で、日本の社会は全く別ものだから、応仁の乱以前の日本というのは外国みたいなもんで、歴史学(考古学ではなく社会学としての)的には研究する必要ないといった人です。

私は、この内藤湖南という人の本を買って、読もうとしたのですが、何言ってるかさっぱりわからなくて早々に挫折したので偉そうなこと言えませんが、とはいえ、どうやら応仁の乱以後の社会は私たちにつながっているようです。

武士の社会

応仁の乱以後の日本の主役と言えばもちろん武士です。

武士社会の特徴と言えば、武器を持った武人、すなわち武器を振り回し暴力を生業とする野蛮人が社会を支配する点にあります。

西洋思想でも、中国の儒教でも、武人が社会を支配するなんていうのは、未開で野蛮な社会でしかなく、理や知による政治が目指され、社会の支配層は、武器ではなく本を持っている人達でしたし、そうでなくてはいけないと考えられていました。

しかし、日本では、腰に刀を差した人たちが支配者層として君臨し、刀を差したまま日常生活をおくり、何かあれば斬りあいはOK、不名誉なことをすれば切腹、諸外国からみると未開で野蛮極まりない社会が中世に誕生し、しかもそのまま社会が発展しました。

その結果何が起きるかというと、しばらく戦乱の世が続きますが、石田三成あたりから、平和な世の中が目指され、これを引き継いだ徳川家康が、300年にわたる太平の世を実現します。

そして、逆説的で面白いのですが、侍社会の特徴の一つに、あまり揉めないという点があります。

喧嘩したら、名家の貴族とかでなく下級でも、武士として斬りあいをしなくてはなりませんから、お互い、譲歩&忖度であまり喧嘩はしなくなります。

名誉のための決闘などは時代劇の世界の話であって、名誉のためには死も恐れずという思想を徹底した結果、まあまあといって、むやみにキレたりはしません。

いつでもどこでも、必要なときは名誉のためには斬りあわなくてはならならない社会になった結果として、もめごとが減るという、こういった現実的なところが、武士社会の特徴です。

キリスト教

徳川幕府がキリスト教を禁圧したのは有名ですが、その理由は何かといえば、現世を超越したものに価値を置く教義を認めると、現実社会のルールを軽んじる奴が現れ、社会の秩序が乱れるという単純なものでした。

負けたところで、名誉を失うだけの文官と異なり、負けイコール死という武士たちは、ある意味超現実主義者でした。

そんな武士が社会をまとめようとした時に根本にあったのは、神の教え、理性、知性といった崇高な理念ではなく、目の前の社会を安定させるための現実的な考えのみです。

山鹿素行なんかは、西洋や中国では野蛮とみなされる、武人が社会を治める日本社会及び武士の存在意義にかなり悩んでいます。

たどり着いた結論は、武士とは、民衆のお手本たるべき存在であるとなります。

そして、お手本として何をしなくてはならないかというと、まあいろいろあるわけですが、絶対的なものに、自分の務めを果たすということがあります。

自分の務めとは、殿様の命令を絶対として無条件につくすことですが、それはイコール、生まれた時点で備わっている役割を全うすることです。

生れた時点で、何々家の何男などと、職業や地位はある程度決まっていて、つべこべ言わずに、既にある仕組みを絶対的に尊重して生きることが武士の務めなわけです。

社会を安定させるにはどうすればよいかというのは最高の難問でもありますが、ある意味簡単な問題でもあり、変化を極力少なくすれば安定します。

そんな感じで、社会はこうあるべきとか、人はこうあるべきとか、いろいろ考えはあるのですが、基本的に、今ある社会、目の前にある現実を絶対的に尊重する現実主義が、広く社会に行き渡ります。

お上の命令が絶対であり、それを持って思考停止の洗脳状態なんていう人も湧いて出てきそうですが、それぞれが目に見えない崇高な理念や哲学に基づいて自己主張したら待っているのは斬りあいだけで、命がいくつあっても足りないのは武士達が一番知っていることでしたから、それは上辺の建前を取っ払ったリアリズムでしかなく、それはそれで考え抜かれた結果でした。

愛について

少し脱線しますが、日本人がなぜ、恋人に対して、「愛している」とあまり言わないかもこれに関連しています。

フランシスコ・ザビエルらが日本でキリスト教の布教を始めた時に、Loveを訳せなくて困ったのは有名な話で、当時は、「お大切にする」としていました。

「神様は皆さんをお大切にしますから、皆さんも神様をお大切にしましょう」といった感じでした。個人的になかなかのセンスだと思います。

ザビエルたちも、Loveに相当する愛という言葉があることはすぐに気づいたわけですが、当時、愛というのは、非常にネガティブな意味も持っていたため、驚きつつも使うに使えなかったようです。

それもそのはず、愛というのは、もちろんいい意味もあるのですが、抑えられない衝動という本質がありますから、武士にとっては、お上に対する自らの務めを忘れさせるものといった感じで、不忠義の象徴であり、御法度の一つだったわけです。

武士が女性や家族への愛に心を奪われるなんて切腹もんです。

また、隣人を愛するならまだしも、神様は皆さんを愛しますなんて言えば、神様のくせになんで愛にうつつを抜かしてるんだ、他にやるべき立派なことがあるだろうというのが当時のリアクションです。

現代でも、愛というと、執着とか没入といった感じで、別の大事なものが見えなくなっているネガティブなイメージがありますし、少なくとも、私たちの神様は私たちのことなど決して愛したりはしません。

現代はさておき、現実の秩序の維持に最大の価値を置く限り、愛とかいう目に見えない崇高な理念は、キリスト教の神様と同じで、現実の安寧を脅かすものでしかありません。

このように、現実超越的な理念は警戒されました。

親孝行

そんな感じで、愛、特に無償の愛のような崇高な理念などを否定して、現実思考が貫かれた結果として、大事になってくるのは、貸し借りです。

社会を安定させるための最高の道徳、それは、借りたものを返すことに尽きます。

無料より高いものは無いと言いますが、愛情とか、友情とか、そういった無償で美しい建前のものが、見返りを求めているわけではないはずなのに、結局は、“裏切り”なるものを経て憎しみに転化し、骨肉の争いが始まるのは、誰もが知っています。

もちろん、情の交換を否定して、ドライな関係だけがあったわけではありませんが、忠とか孝とか自律とか、我々の道徳の表面には美しい言葉が並んでいますが、その内面には、借りたものを返すことが一番重要であるという現実思考が根強く存在しています。

親孝行しなくてはいけないというのも、美しく彩られていますが、実際には自主性というより、強制力を持った義務にかなり近いです。

もちろん、親の愛は見返りのために与えられるものではないのですが、受けた恩を返さない者は、生きる価値は認めてもらえません。

親だけでなく、幼少のころから、忘恩の徒は人間ではないと、徹底的に教え込まれます。そして、恩の中でも義理だけは特別で、何が何でも返さなくてはなりません。

ただ、報恩や忘恩、義理不義理に対する私たちの思想は、神様が言ったからそうしなくてはいけないとかではなく、そうやっていかないと、社会が上手くいかないだろうなというリアリズムに根ざしている気がします。

私たちが、美辞麗句で彩られた欺瞞を嫌がるのは、嘘がいけないとかそういう理念的なものではなく、「そんなんで社会が上手くいくわけないだろ、現実を、自分自身を、よく考えてからものを言え」という無意識の現実主義的な思考から来る反発だと思います。

恩を売る、着せる

ルース・ベネディクトが書いていましたが、昔の日本には、街中でトラブルをみてもむやみに助けてはいけないという法律があったそうです。

恩は返さなくてはならないと徹底的に教え込まれる私たちですから、よく知りもしない相手にむやみやたらに、恩を与えることは、恩を着せるといって、嫌われますし、やってはいけないことの一つです。

そして、他人に世話になった時の負担感は日本人なら誰でもあると思います。

先日、エレベーターで、自分が扉側に立っていたので、開けるボタンを押して、他の人達が出るのをまっていたのですが、その中にいた、外国人観光客の親子の5歳くらいの女の子に、片言の日本語で「アリガト」といわれ、内心ちょっとイラッとしたのを覚えています。

ありがとうも間違いじゃないけど、見ず知らずの年上の人間の世話になったんだから、「ありがとう」ではなく「すみません」でしょと、相手が外国人の子供ながら、心の中では思います(もちろん怒ってるとかではないです、相手は観光客ですから・・・変な誤解はしないでください)。

何か人の助けを受けた時に、我々はすみませんと言います。

済みません。つまり、私はあなたの恩を確かに感じました、これで済ませるわけにはいきません、しかし、恩返しをする機会もありそうもない、せめて、自立した存在でなければいけないのに、あなたの助けを受けざるを得なかった自分の恥すかしい想いを表明させてください、というわけです。

もはや日常生活で使う場面もないですが、すみませんで足りなければ、かたじけない(恥の極みである)なんて言います。

まあ、明治維新、敗戦と、欧米の思考様式を無節操に受け入れざるを得なかったせいで、弱者は助けなくてはいけないというキリスト教的な文化が浸透しつつあったりして、文化的には混乱しています。

体の弱い年寄りに席を譲らなくてはいけないのですが、見ず知らずの年寄りに席を譲って恩を売る、年長の弱者に情けをかけるなんていうのはどうも心地の良いものではないですから、結果として、空いてるのに優先席には座らないなんて現象が起きます。

馬鹿々々しいことこの上ないのですが、恩を感じ恩を返す、借りたものを返すという理念を徹底するのは、安定した社会を構築する上では、非常に現実的な方法だと思います。

このように、超現実主義の武士社会を経た私たちは、明治以降、理想主義的な欧米文化を受け入れて変わりつつはありますが、考え方を変えようとしても言葉は変わらず、考えるには言葉を使わざるを得ないという点で、変わらぬ日本語を通じて、受けた恩は返さなくてはいけないという昔からの思考様式はそのままで引き継いだりしていますから、助け合いと叫びながら、どうも助けられるのは嫌いなわけです。

クレジットカード

以上を受けて、いきなり結論に行きますが、要するにほとんどの日本人は、できる限り他人の世話になりたくないんだと思います。

相手が会社でビジネスとしてやっているといえども、他人の信用を借りて買い物をするというのは、きまりの悪さを感じるのが通常でしょう。

家族でも親友でもない者の助けを借りた時に感じる無意識の負担感が嫌なのだと思います。

つまり、多少面倒でも、自分が現金を用意すれば済むのであれば、そんな不便、人の世話になることから来る負担感よりましだと感じているのではないでしょうか。

これが、日本でクレジットカード決済が今一つ普及しない理由なのかなと思います(まあ、歴史認識はだいぶ適当ですが)。

こう考えると、クレジットカードの使用率が低いながら、電子マネーの普及がかなり高い理由は説明できる気がします。

まあ、Amazon、楽天、Netflix、などの便利さには勝てないと思うので、アメックスの言うように、少しずつ増えていくとは思いますけどね。

ただ、楽天銀行の口座からの楽天Edyチャージができるように、オンラインでの銀行口座経由の電子マネーチャージが普及して、電子マネーのカード番号でネット決済が可能になると、日本ではクレジットカードではなく、電子マネーが決済の支配者になるというガラパゴスになるんじゃないだろうか。

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