小金井の女子大生刺傷事件の判決に思うこと


久しぶりに社会論を一席。

昨日から確定申告をやっていて頭が大忙しで、そういった生活の些末なことに頭を使っていると現実逃避の一環として大きなことを考えたくなります。

頭を整理する気が起きそうもなくて丁度良いので、ぐちゃぐちゃな社会論をワーッとキーボード乱射で一席ぶってみます。

先日、アイドルを34回刺して殺しかけたストーカー事件の判決が地裁でありました。

この判決については、被害者含め納得のいかない人が多いようです。刑が軽すぎると。

私が思うに、おそらく裁判官も、これじゃ社会は納得しないだろうな、自分の仕事は何なんだろうと疑問を抱きつつも、これが法の結論なんだと判決文を書いたのだと思います。

一体なんでこんなことが起るのでしょうか。

話は数十年前に戻ります。いわゆる60年代の学生運動、安保闘争です。

ニュースで聞いたことあるけど意味不明で理解できないという人もいるかもしれません。

しかし、あの運動の本質は今もあります。

当時はまだ進学率が低く、高卒どころか中卒も当たり前で、選ばれたエリートだけが大学に進学できました。

しかし、熾烈な競争を勝ち抜いて夢を持って入学した若者に待っていたのは、学問の自由なんてものは全く感じられない、権力と一体になり旧態依然とした大学でした。

そこで、大学改革の運動が始まります。

しかし、ピュアでナイーブな優等生たちは気づくわけです。自分たちは一体何をやっているのかと。

当時の大学進学率は1割程度。ほとんどの同級生は今とは比べ物にならない過酷な環境で働いているわけです。

そんな社会環境の中、自分たちだけ黒い汗をかいて働くことなく勉強なんてものに専念する環境が与えられているわけです。

今は教育格差の議論が盛んですが、程度の差はあれその手の議論は昔からあり、実際、大学生の多くは恵まれた環境出身でした。

そして、自分達エリートが、大学改革なんて言う、自分たちのことばかり考えていいのか、大学ではなく社会のために運動しなければいけないとなります。

根底にあるのは、社会の権力構造とその権化ともいえる大学、しかし、その権力に認められたからこそ、自分たちは働かずにいられるというジレンマです。

クソみたいな社会を変えたいのに、そのクソみたいな社会から選抜されたエリートが自分達だったわけです。

権力側に不満を持った今、自分達が、権力側の作った教科書を盲目的に習得する人間コンテストの選抜メンバーであることに気付いたわけです。

そんな歪んだ自己否定に火がついて一気に既存の体勢に対して攻撃的・急進的になります。

そうはいっても、所詮学生ですし、そんな簡単に社会の方向性が見つかるはずもありません。

アメリカに追従しながらもアメリカに押し付けられた憲法を廃止して自主憲法制定にこだわる保守派と、アメリカ追従を断固批判しながら合衆国憲法コピペの日本憲法万歳の革新派の両方に不満をもちながらも、答えはなかなか見つかりません。

結局はマルクス片手に暴れまわっただけでした。

方向性はさておき、根底にあったのは、知的エリートとしての自負と、学歴エリートならではの自己否定です。

これは、まだ皆がナイーブだった昔の話ではありません。

70年代から、荒れる学校という話題がニュースなどで取り上げられるようになります。

最近の先生は質が落ちた、最近は家庭のしつけが不十分だ、詰め込み教育で心の教育がおろそかだ。

10年サイクルくらいでに主犯人は変わるのですが、こういった議論は、いつでもあります。

なお、昭和初期には、学校に教育は任せておけないといって、母親が小学校に行って授業を監視するという社会現象が生まれ、廊下をうろつく母親たちが廊下スズメと言われました。また、60年代には、数学者の遠藤なにがし?が開発した水道方式とかいう計算方法が大流行し、授業を水道方式で教えるように担任に迫る水道ママという社会現象も起きていますから、モンスターペアレンツの歴史は100年近くあったりします。

そこはさておき、90年代の教育批判のトレンドは受験戦争でした。

知識人やマスコミが、少年犯罪などが起こるたびに、詰め込み教育批判をします。

教育雑誌を開けば、教育の本質は学力の育成ではなく人間力の育成だなんて主張のオンパレードでした。

しかし、実は、批判している知識人やマスコミの人の多くは、受験戦争で勝ち抜いたからこそその地位にいるわけで、批判の裏では、その高い地位に基づく高い給料で子供を塾や名門私立に行かせていたわけです。

そして、ついに文部省が大ナタを振るってゆとり教育を導入したら、知識人達の本音が一気に爆発して、今度は「なに教科書薄くしくれてんだよ!」の大合唱。

本当に何やってんだか。

こういった、知識人の自己否定と自尊心の葛藤はいつでもあります。

今、時代は行き詰っています。

ここ数百年くらい、すさまじい勢いで、科学は進歩し、社会は豊かになったのですが、現代人の多くが、このままでいいのだろうかと不安をもち、実際のところ不幸な人は増えています。

今の延長に明るい未来がないことは多くの人が気づいています。

ここ数百年の人類、社会の進歩を支えた原理には共通項があります。

まず、科学。

近代合理主義の礎ともいえる科学は、徹底的に物事を分析して、論理的に解析していきます。そして、それは物事の原理を明らかにしていこうという試みであり、結局は、ミクロに方向に進ます。物事を一つ一つ分解していき、根本原理ともいえる普遍法則を導き出して、それに基づいて、私たちが眼にする現象を明らかにしていこうとします。

部分が分かれば全体につながるという考えです。

次に、経済。

資本主義とは何かというのは難しいのでさておき、アダムスミスを始祖とする、個人の自由な経済活動をできる限り保証することが社会全体の経済の活性化につながるといった、古典派経済学が今でも主流で、いろんな修正論はあるものの、社会主義への反発もあって、ここでも社会を個の集まりと捉える考えが主流です。

そして、人権論。

欧米をまねた我々の憲法の13条にも書いてありますが、価値体系の最高位に来るのは個人であるというのが近代社会の条件とも言えます。個人・個性こそが実現しなければならない最高の価値であり、一人一人が社会的な価値観のような何物にも縛られず、自分なりに自分だけの価値観に基づいて自由に生きていける社会こそ理想の社会であるという考えで法整備は進みます。

ここでも、個人が輝ける社会が輝く社会だという、個に注目した社会感があります。

3つに共通しているのは、全体を個の集合と捉えることです。

そして、このように考えるからこそ、積み上げ型の合理的思考なるものが可能となるわけで、まさにこの強固なトライアングルが西洋を起源とする近代合理主義のエンジンです。

そのおかげで、社会は急速に進歩しましたが、物的豊かさがほぼピークを迎えた今、いろいろと行き詰っています。

科学の分野では、AIは人間になれるのかの議論が盛んですが、今の科学を突き詰めていって、人間やら世界が理解できる日が来るのか、ミクロの積み上げでマクロが理解できるのかという疑問に突き当たっています。

経済でも、個の競争を進めるだけだと二極化が進むだけで、特にここ数年の経済成長は、成長分だけ上位層を豊かにしただけで、今のままでは経済ひいては社会はいずれおかしくなると気づき始めています。

そして、人権社会に関しても、個の自由や多様性を認めるのは賛成だとしても、人は真空状態に浮かぶ塵の様には生きていけず、地域社会なりなんなり、何らかの集団に所属して価値観を共有していかないと豊かに生きていけないというのは、テロ組織や原理主義団体の跋扈からも明らかです。

まず全体があって分析に都合の良いように人為的に切り出したのが部分ですし、市場あっての個人の経済活動、社会あっての個人なわけです。

そもそも、「自分」というものが「他人」との相互作用なしに存在するのかどうかもわかりません。

最初に個人があって次に関係があるのか、実は最初にあるのは関係で次に個人があるのか。

結局、いま私たちの目の前で、部分から全体を合理的に導こうとする近代西洋合理主義が音を立てて崩れていっているわけです。

しかし、今の社会のリーダーたちは、まさに、西洋近代合理主義教育の完成形ともいえるエリートたちです。

先日、友人で国際的に活躍しているスーパーエリート人権弁護士と飲んだのですが、自分は日本人ではなく地球人であると称する彼は、昔は日本というのは、世界で突出した外国人嫌いの国で、何とか変えたいと思ってたけど、今は世界全体がおかしくなってしまったと真顔で頭を抱えていました。

おかしな社会を変えたいのですが、おかしな社会を完成させた人権教育の申し子です。

おかしな社会の権威達が作ったテキストを正確に理解する大会で良い成績を取り、さらにその上位の人間だけが所属できる組織でよい評価を得ています(ごめんね)。

経済に関しても、今後日本がますます高齢化社会になっていく中で、どのように労働力を確保してどう成長していくべきかといった、、従来通りの労働中心の成長至上主義の経済学のフレームワークで未来を議論している知識人はたくさんいます。

もちろん日本の成長期にその成長を支えた経済学理論の習得で優秀な成績を収めた人たちで、ギリシャとドイツを同じ経済圏に入れて、競争によりGDPが増えて、ギリシャ人が幸せになると思っていたような人たちです。

科学の分野でも、糖質制限のように、相変わらず、無数にあるこんがらがった線の中から、特定の点につながる線だけを抜き出して、その点につながっていない線はさも影響を受けないかのように全体を語る科学者がたくさんいます。

今最盛期の科学者は80年代以降のコンピュータ制御の分析機器の急発展と共にキャリアを積んだ人がたくさんいます。

個から全体を推測する合理主義精神の申し子たちの自尊心が暴走している気がします。

ここで話はまとまるかと思いきや、一気に幕末に飛びます。

江戸時代というのは身分社会でした。

世襲制でしたから、家柄が全てで、優秀かどうかは出世とは一切関係ありませんでした。

どんなに優秀でも殿様にはなれませんでした。

では、だからといって勉強しなかったかというと、武士たるもの常に自己研さんということで、皆非常に教養が高かったと言います。

しかし、出世と一切関係ないので、皆勝手に勉強していました。

時代を考え、幕府をどうすべきか、藩をどうすべきか、損得なしで、自分がお上の役に立つうえで必要だと思うものを判断して学んでいました。

その結果、明治維新で実力性になったとたんに、化け物級の下級武士が続々と登場します。

主体的に勉強していた集団の中で、頭角を現した人たちですから、相当優秀だったのだと思います。

しかし、西洋に追いつけ追い越せで、高等文官試験というのがはじまり、ここで初めて勉強の成績と出世が結びつきます。

お手本というかテキストというか、所与の教義体系があって、それをどれだけ習得したかで、出世が決まる社会になります。

与えられたテキストに疑問を抱く人間が上に上ることは出来ない世の中です。

本来勉強というのは、勉強が好きな人がするもので、やらされるものではないわけです。

勉強好きの頭の良い子は、勉強しながら皆それに気づきうしろめたさを覚えます。自分なんて社会の仕組みの中で何となく勉強しているだけだと。

教科書に出てくる偉人たちを知れば知るほど、自分がそうでないことを知ります。本当に勉強が好きなわけではないと。

ただそれでも勉強のできない子と一緒にされるのは我慢がならないわけです。

科学・人権・資本主義が大成功を収めた、明治維新から成長しっぱなしの21世紀くらいまでは良かったのでしょうね。

同じような人が大量に生れて非常に効率的に社会が運営されました。

しかし、西洋的な合理主義がうまくいかなくなっているのに、今まで通り、西洋合理主義精神の申し子の大量清算をこのまま続けていっても自分たちの首を絞めるだけという現状。

小金井事件の判決はその象徴の一つでしょう。

自尊心と自己否定の間で揺れる知的エリートたちの自縄自縛です。

自分が学んできたことの延長ではうまくいかないことには気付いているのですが、自分を自分たらしめている、大衆との間にある線を飛び越えて、大衆側に行くこともできないのです。

出世の道具として勉強しただけの知識が、所詮は時代ごとに移り変わる価値観に根差したフワフワしたものに過ぎず、それが通用しない世の中になっているのには気付いていて、ただ、自己否定が暴走した60年代安保闘争のように既存勢力の全てを否定して急進的に社会を変えようとするのではなく、その真逆で、これまで学んできた知識を、人類の知性が生み出した普遍的で高尚なものだと言い聞かせて、今や世界全体がおかしくなっていると、自尊心側が暴走しているわけです。

社会は明らかに行き詰っているのですが、その原因が自分たちが崇め奉っていた知識にあるとは思えないのです。

エリートたちがこれじゃ社会は変わりません。

革命。

そう、革命しかないわけです。

丁度1930年代のドイツがそうでした。

どうにも社会が上手くいかない中、右派にしろ左派にしろ何も変えられない既存の延長にある中道路線の政治家たちへの民衆の不満が爆発します。

そして、大躍進するのがナチスドイツと共産党。

民衆は既存の価値観を乗り越え、時代を変える新しい風に期待しました。

その流れを読み切ったナチスドイツが反共産党の大キャンペーンで共産党を振り落として、後はご存知の通り。

このままじゃいけないのは確かですが、だからと言って木っ端みじんに吹っ飛ばすのは高くつきそうです。

いつの時代も大変とは言いますが、今は本当に大変だと思います。

教育改革こそが本丸でしょう。

与えられた知識に疑問を抱かない人間ランキングに基づく出世主義だけは何が何でも変える必要があると思います。

既存の知識を習得しながらも、過去にハイジャックされない自由さを持つエリートの養成が重要かと思います。

自分がなれれば良かったのですけどね。

一気に書いたのでぐちゃぐちゃななのですが、確定申告やらないといけないのでそのまま載せちゃいます。

タイトルは落ちこぼれの歌とかにすればよかったですかね。

なお、この文章のネタ本は下記です。

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