自己責任的医療保険について


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問題提起がずさん過ぎて結局ただの炎上で終わってしまいました。

はじめに

長谷川豊氏の人工透析患者の医療費をめぐるブログ炎上の話です。

彼自身が社会保障制度に対する問題提起をしたかったというのは間違いないでしょう。

ただ、やり方があまりにひどすぎたため、誰一人として本質的な議論に付き合わずに炎上だけさせて終わってしまいました。

まあ、不適切表現、事実誤認等突っ込みどころが多く、特に、現場の医者のほとんどが心の中で人工透析患者を軽蔑しているかのような書き方、また、制度批判を特定の患者の人格批判に置き換えてしまった点はフォローのしようがありません。

名指しされた方々の怒りを考えると、「そこはさておき内側の問題提起自体は社会保障問題の本質をついているから考えてみよう」的な話をしたい人でも、関わりたくないというのが本音で、多くの人はだんまりを決め込むのが通常かと思います。

そうはいっても、彼に浴びせられた批判的意見を読んでいくと、その批判にも賛同できないものがあったりする人も多いのではないでしょうか。

例えば、ラディカルな批判の典型例で、発言における不適切部分なんて気にも留めずに、彼の問題意識に対して批判ではなく真正面から反論する意見で、ある意味彼が望んでいた反論ですが、

「自業自得だろうがなんだろうが、困っている人がいればその人が普通の生活ができるように面倒みるのが国の責務で、その手段が社会保険なんだ。」

という意見があります。

いわゆるバリバリのリベラル派の意見です。

まあ、分からないでもないですが、長谷川氏の問題意識がなんとなくわかる人は、彼に賛同はしないとしても、かといって、上記のような立場にも与しないかと思います。

何故かと言えば、かわいそうだから助けるという理想を追求できない状態に陥っているからこそ、社会保障制度が問題となっているからです。

自己責任だから死ねなんていう極論には到底賛成できないとしても、かわいそうだから全員救うべきだという意見もそれをやってたらきりがないという点では同じように極論に聞こえるのではないでしょうか。

ただ、社会保障制度に関するマスコミ等の報道が、特定の制度的欠陥や救われない弱者を強調したり、何々の部分を削減すると何億円予算が浮くといった枝葉の議論ばかりで、全体的な視点で問題を考えるものがほとんどなかったりします。

その結果、社会保障制度の議論をしていくにあたって、根本的な原理原則論から考えることが難しくなっているような気がします。

そこで、この問題に関して、社会保障制度の原理原則論から考えてみたいと思います。

選択の問題

まず、社会保障制度の議論における最大のポイントは、問題の解決には選択が必要ということです。

経済が成長している時は、社会保障に回すお金が工面できますから、そのお金をどう振り分けるかという技術的な議論で終わっていました。

何か問題が起きても官僚のやり方を批判すればよいだけの平和な状況だったとも言えますが、そもそも彼らはそういった技術的な問題の対応に関しては優秀で、行き当たりばったりの対応も多く、制度がやたら複雑になってしまったという点はあるにせよ、結論としては、概ねうまくやってきました。

複雑さを除けば結論としてはよくできていました。

しかし、日本が成熟国家となり、少子高齢化と低成長(因果関係はさておき)の二つのせいで、既存の制度の維持、つまり、既存の負担で既存の給付を維持することが出来なくなってきました。

既存と負担と既存の給付が維持できない、つまり、どちらかを減らすか増やすかしないといけないわけです。

上手くやると何とかなるという話ではありません。

そういう意味では、いま議論されている社会保障問題は、官僚にはどうしようもない問題であり、まさに政治の問題というか、国民の選択の問題です。

議論と多数決で選ばなくてはなりません。

一方にあるのは、いわゆる北欧型社会です(もちろん北欧も実際の制度は複雑ですが)。

例えば、収入の半分は税金で持っていかれ、かつ、消費税は30%だけども、誰であれ医療は無料(極端な例で実際にそういう国があるわけではないですが)、といったような、負担は大きいけど給付も大きい制度。

この制度を目指すと、既存の給付を維持しようとするだけでも、国民、特に若年層の社会保険料+税金の負担は今の1.5倍以上になると言われます。

その対極にあるのがアメリカ型(もちろんアメリカも以下のように極端ではないですが)

つまり、社会保障制度自体がなくて、年金にしろ医療にしろ、自分で保険会社と契約して何とかしろというもの。

もちろん、アメリカにしろ北欧にしろそこまで極端ではないし、また、その両極端のどちらか一方を選ぶ必要もありません。着地点は、そのミックスでしょう。

また、イギリスのように、平等主義・租税中心の北欧型にもかかわらず、負担率(給付額)が非常に少ないために事実上アメリカ型と同じという型もあります。

しかし、負担は軽く給付は手厚くといった、良いとこどりを制度として実現するのは不可能であり、医療・年金・福祉等各論はいろいろあるにせよ、総論としては、私たちの選択にかかっているという点がまず重要です。

自己責任の反映方法

では、人工透析患者の治療費に代表されるような医療保険はどのように考えればよいでしょうか。

もちろん、高度先端医療のように、医療費の給付に関しても、現実には細分化して、その区分ごとに負担を考えていくのが筋ですが、そこまで深入りはしません。

まず、医療費という給付に対して、アメリカ型つまり自助型か、北欧型つまり公助型かのどちらの負担で対応するかの選択の問題があります。

具体的には、個人で勝手に結ぶ私的保険で対応すべきなのか、強制加入の公的保険で対応すべきなのかという選択になります。

もちろん、公助というと、公的保険ではなく消費税のような税金投入も考えられます。

ここで、若年者の5倍かかると言われる高齢者の医療費を、若年者と同じ一つの保険で対応しようとしても若年者の保険料負担が不相応に跳ね上がるだけで、保険の体をなしませんし、かといって、年金生活の高齢者だけで保険を組めと言っても無理ですから、医療費といえども、高齢者の医療費部分だけは別扱いし、そこは税負担で対応するのが適切でしょう。

しかし、若年層の医療費に関しては、税金を財源として、高所得者から低所得者へ移転して対応するというのも変ですし、一人一人が削減すべきインセンティブを持つべきですから、やはりリスクを集団で分散する保険で対応するというのが正しいでしょう。

では、公的保険とすべきか、それとも私的保険とすべきでしょうか。

ちょっと脱線しますが、長谷川氏の意見に対して、自業自得かどうかは判断不能であり、つまり実現不可能だから、彼の主張はおかしいと批判している人は多いです。

しかし、この意見は、医療保険が公的保険である現状を当然の前提としている点で、今後の医療保険制度を考えている「あるべき論」ではない気がします。

公的保険を前提とすると、国が患者ごとに自業自得かどうか判断するなんてことは出来ませんから、上記の批判は正しいです。

しかし、医療保険を、私的保険と公的保険のどちらで対応すべきかという根本から考えると、上記の批判は当たらないと思います。

私的保険中心、つまり健康リスクは各自で勝手に保険会社と契約して対応しろとして、ある意味全てを自己責任と判断してしまうやり方が取れるからです。

この方法には、自動車保険のように、保険会社が専門家としてリスクを正確に見積もり、リスクに応じた適切な保険料を負担させることが出来るという、いかにもアメリカ的な考えが背景にあります。

つまり、結果的にかわいそうな人は全員救えではなく、健康な段階から、不摂生な人は保険料が高くなる仕組みして、少しでも自己責任度合いを保険の仕組みの中に反映させるという考え方です。

一人一人に適切な対価負担が実現されると、リスクを最小限にしようと行動するインセンティブが働くという期待があります。

心優しい私が、長谷川氏の発言を超好意的に解釈すると、彼が表明した敵意や嫌悪感の対象は、本当は人工透析患者ではなく、よくわからないままの消費税増税のような、なんとなくで北欧型の社会に移行している現状、および、それを当然のように進めようとするリベラル派なのだと思います。

健康リスクには後天的な差があるにもかかわらず、北欧型のように平等主義を貫いて、個人差を無視した負担制度にするのではなく、いわゆるアメリカ型のように、自分で自分を守るような制度にして、効率化しろという意見を言いたかったのでしょう。

なんで健康に気を使っている自分が、気を使っていない人間のリスクを負担しなくてはいけないのか、制度にタダ乗りする人が増えるといったモラルハザードを防ぐ手立てをしろと言いたかったのだと思います。

長谷川氏の根底にある倫理観はさておき、そのための施策として、私的保険の採用は、理論上は選択肢の一つです。

では、国民皆保険の維持が不可能だからと言って、全員強制加入で一律保険料算定の公的保険を辞めて、リスクとリターンが個人ごとに対応する効率的な私的保険に、全部なり一部をゆだねることは可能なのでしょうか。

私的医療保険の問題点

結論としてはできないのです。

上述したように、いわゆる自己責任論を医療保険の世界で実現するには、従来の医療保険(公的な健康保険)を縮小して、各自が自身で保険会社と契約するという私的保険中心の社会保障制度にすればよいわけです。

ただ、これが上手くいかない。

それはなぜか。

経済学でいう「市場の失敗」の一つである「逆選択」の問題が起こるだろうからです。

最大のポイントは、自業自得かどうかの判断を、専門家による健康リスク判断と言い換えたところで、保険会社にそれを正確に見積もることはできない点です。

健康問題は、何かあるとすぐ病院に行く人かどうか等の判断も含めて、リスク診断を自動車保険のように精緻化できないわけです。

その結果、何が起きるかというと、長谷川氏のような、自分は健康に気を使っているという人は、必ず保険料に不満を持つことになります。一人一人のリスクを正確に見積もることが出来ない以上、必ず、保険料というのは低リスクの人には割高、高リスクの人には割安となります。

そして、自称低リスクの人はどんどん保険に入らなくなります。

そうすると、保険集団は高リスクの人だらけになって、さらに保険料が上がり、そのなかでも低リスクの人はまた保険から抜けてしまうという循環が起きます。

という感じで保険が成立しなくなります。

これこそが、医療保険が公的保険とされている理由で、全員強制加入の公的保険にしないと、結局保険制度自体が成立しなくなって、社会の福利厚生自体が悪くなってしまうわけです。

ここでの最大のポイントは、自業自得の人もひっくるめて公的保険で救済することは、弱者救済という「公平性の観点」ではなく、「市場の失敗」の防止という、「効率性」の観点から必要になるという点です。

自業自得がどうかを判断することが理論的に不可能とか、弱者を救済することが国家の役割だとかではなく、いわゆる自由主義的な経済全体の観点からも、自業自得かどうか、つまり、健康リスクの判定が困難な人も救済する仕組みにしないと経済全体がうまくいかなくなるという話です。

サッチャーやレーガンの実施した社会保障削減策が、かえって経済の効率性を害し、結果として経済全体にマイナスの影響を与えてしまった側面があることを経済学者たちは指摘しています。

それを受けて、世界銀行の1997年の報告では、生活保護・基礎年金・失業保険・災害救助といったものは国家の機能のうちの「公平性の改善」のカテゴリーに入っていながら、健康保険は、金融規制や消費者保護と同じく、国家の機能のうちの「市場の失敗への対処」にカテゴライズされています。

まとめ

以上、長谷川氏の見解を超好意的に解釈した上で、原理原則から考えてみました。

自業自得の人工透析患者を公費で救うかどうかといった枝葉的な考えでは何も見えてきません。

社会保障制度の考えるにあたって、まず最初に大きな選択、つまり、アメリカ的自助型か、北欧的公助型かの選択の問題があることを認識する必要があります。

そして、具体的な医療費の給付について、自助つまり私的保険で対応すべきなのか、公助つまり公的保険で対応すべきなのかという選択になります。

もちろん、公助というと、消費税のような、税金投入も考えられますが、上述したように若年者の医療給付は保険で対応すべきかと思います。

そうしたときに、では全員強制加入の公的保険か、個人の自由の私的保険で対応か、といった場合、私的保険だと保険料と給付の適切な対応という観点からうまくいきそうですが、じつはうまくいかないよ、という話でした。

健康リスクの判断が不可能で、市場に任せてもうまくいかない以上、弱者救済の公平性ではなく、効率性の観点からも、公的保険で救うのが合理的なわけです。

もちろん、負担率や医療費の区分の議論は全く別問題ですから、以上は大枠の議論に過ぎませんが、基本的に自業自得度合いがグレーゾーンの人は救わなくてはいけないのが原則です。

ネタ本

今回のネタ本は下記です。

約20年前の本ですが、名著中の名著で、大学の先生にしては珍しく(?)、何が専門なんだかわからない人だけあって(遺伝子、時間論、医療の3つが専門?)、時々途方もない脱線をしてついていけなくなりますが、非常に示唆に富んだ面白い本です。

内容を読み違えていないと良いのですが。

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