2016年度初営業日


新年あけましておめでとうございます。

今日は、スタジオの2016年度初営業日でした。

せっかく自由業を始めたので、今年も、難しいことは考えずに、好きなことを好きなだけやって、おもしろおかしく生きていこうと思います。

年末年始に、『理性の限界』という結構面白い本を読みました。

アローの不可能性定理、ハイゼンベルグの不確定性原理、ゲーデルの不完全性定理の3つをテーマにまさに理性の限界を考えていく本で、こういうテーマが好きな人にはたまらない本だと思います。

特に、個人的には、不確定性原理の説明がうますぎて感心しきりでした。シュレディンガーの猫がよく分からないという人には自信を持ってお勧めします。

もちろん、ファインマン(だったと思う)の「量子力学を理解したと思っている人は間違いなく理解していない」といったような発言も言及されます。

なお、補足すると、不可能性定理というのは、民主主義的な意思決定は不可能であることを証明した定理、不確定性原理というのは、物理学において真実はわからないという原理、不完全性定理というのは、数学には証明できない定理が存在することを証明した定理です。

いずれにせよ、どんなに考えてもわからないことがあるという点を意識しないまま、ロジカルシンキングだ、合理主義だ、エビデンスベースだと言って議論する人たちに警鐘を鳴らすために書かれた本だと思います。

どんな議論にも、根底には個人の価値観があったりします。そして価値観の対立というのは、最後には喧嘩になります。

もちろん、いろいろな考え方があるから世の中は楽しいなんていうおめでたいことを言う人もいますが、ふつうは、自分の生活スタイルや主義信条にかかわる部分になると、自分と違う意見が自分を否定しているように聞こえたり、自分と意見の異なる他人が間違っているように感じて否定してしまったり、どうしても、少しぎくしゃくします。

何十年か前には、東西冷戦のように、価値観の違いから生じた対立が世界が滅亡させる一歩手前まで行きました。

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そのせいか理系に対する負い目かは知りませんが、経済学は、非現実的な仮定をおいた上で数学を駆使して、よくわからないものを証明したりして、価値観中立的に議論しています。

必死に科学のふりをしています。

時々、テレビなどで、何々は経済学的に証明されているなんていうわけのわからないことを言う人がいたりしますが、まさに意味不明です。

一向に社会から貧困が消えず、経済学が何の役にも立っていないことを嘆き(そこまでは言っていない?)、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、そういった箱庭の中で科学的議論ごっこをしている人達を「合理的な愚か者」と呼びました。

それと同じことがダイエットにも言えて、たかがダイエットのようで、食生活という人生の重要部分に関する選択を含みますから、各人が譲れない思いを持っていたりして、結構熱くなります。

その典型例が、糖質制限をめぐる議論でしょう。

お前馬鹿じゃねえのと言いたい思いをぐっとこらえて、自分は理性と知性を兼ね備えたクールな大人だと言い聞かせて、一生懸命、相手を打ち負かそうと、どうにでも解釈できるような科学的証拠を持ち出して、価値観中立的、科学的に白黒つけようとしています。

そして、その実態は、いくらがんばってもわからないことがあるという前提たる真実を忘れた、愚かな議論だったりするわけです。

現時点では何も言えないというのが一番科学的な結論だったりするわけで、現時点でのエビデンスだけで結論付けること自体が愚かなのかもしれません。

少なくとも、わからないものはわからないというのが科学的な態度であって、今あるエビデンスから何かをひねり出すのが科学的かどうかはわかりません。

ときどき、反論に対して、エビデンスがないなら議論にならないなどと言う人がいますが、今あるエビデンスだけで結論付けて良い理由を説明できないのであれば同じようなものです。

「この点に関しては証明した実験が一つある」なんて主張するのは、まさに「合理的な愚か者」です。

いずれにせよ議論にならない議論であるかもしれないわけです。

新年しょっぱなから訳の分からないことをえらそうに言っていますが、何を言いたいのかというと、今年も私のスタンスは変わらないということです。

何故そうかと聞かれたら、私がそう思うからだ、と答えます。

このスタンスだけは貫きます。

まちがっても、エビデンスベースの議論なるものを繰り広げたりはしないように気を付けたいと思います。

以上、新年の誓いでした。

ただの「非合理的な愚か者」になったりして。